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ヨハネ1:1-5「神のご計画の一貫性」



はじめに

 今年度から、神戸恵みチャペルでは、ヨハネの福音書から神の言葉に聞いていきたいと願っています。今年のテーマは週報にもある通り、「御言葉によって生きる」です。「御言葉」「ことば」というのは、ヨハネの福音書にとって重要な意味を持っています。なぜなら、ヨハネの福音書はイエス・キリストが「ことば」なる存在であると証言しているからです。年間テーマ「御言葉によって生きる」と共に、ヨハネの福音書に示される「生きたことばとしてキリスト」を共に味わっていきましょう。

1-2:「ことば」とは

1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。 

 

 聖書の時代の読者は、「はじめに」と聞くと、創世記の記述を思い起こします。「はじめに神が天と地を創造された」(創1:1)。神の創造の御業の「はじめ」。これは創世記の11節です。

 しかしヨハネは、はじめに「創造があった」というのではなく、はじめに「ことばがあった」と言います。

 私たちは、この「ことば/ロゴス」の存在を、「ことば」が人となって、「イエス・キリスト」として地上に来てくださってからようやく知ることができるのですが、実はこのキリストは、創造の御業を、父なる神と共に行っていたのだ、とヨハネは証言しているのです。

 この「ことば/ロゴス」は、一方では神と共にあったと言われ、神とは区別された存在として描かれています。しかし他方では、「ことばは神であった」と言われ、今度は神と同一視されています。

 ここでヨハネは注意深く「キリスト」と「父なる神」を区別しながら、しかし「キリスト」を神と同じ権威を持つ存在であると伝えているのです。

 「神と共にあった」とは、「神に向かっていた」とも訳すことができます。つまり、父なる神に向かっていくような、交流するような関係をもっていたということです。父なる神と区別された存在でありながら、しかし一つであると言えるほどの親しい関係性をもっていた。

 このような「キリスト」と「父なる神」との関係を、強調して言い直したのが2節です。「この方は、初めに、神とともにおられた」。ここまでの内容をふまえて言い換えると、「キリストは、創造の前から存在していて、神と親しく交わっておられた」ということです。

 

3:「ことば」と「出来事」

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 

 「すべてのものは、この方(このことば)によって造られた」。ヨハネの説明によれば、父なる神様は、「ことば」によって、つまり「御言葉」によって、「キリスト」によって、この世界を造られました。「ことば」を通して、「世界が造られる」という「出来事」が起きるのです。

 神のことばは、それを必ず実現する、それを「出来事」にする力を持っている。神が「光あれ」とことばを発したら、事実、出来事として、そこに「光がある」のです。

 神の「ことば」は、イエス・キリストの到来によって、この世界の「出来事」となった。

 父なる神様は、「ことば」を通して造られたこの世界に対して、ご自分の思いを、御心を、「ことば」によって「御言葉」と「キリスト」を通して私たちに明らかにされるのです。

 父なる神が「ことば」によって造られたこの世界で、私たちが聞くべき「ことば」は「御言葉」であり、イエス・キリストの「ことば」である。そして知るべき出来事は、「イエス・キリスト」という存在なのです。

4:「いのち」であり「光」である「ことば」

4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 

 「この方にはいのちがあった」。「御言葉」は、「キリスト」は、この世界を造った、私たち人間を造った、いのちをもたらす、またいのちの源である「ことば」です。父なる神の言葉によって造られた私たちは、神の言葉で生きていく。「御言葉」と「キリスト」からいのちを得ていく。

 神のことばによって造られた私たちは、ことばなるキリストを、今も必要としています。「キリスト」は「人の光」なのです。私たちの光なのです。私たち人間は光を必要としています。光を頼りに生きています。

 私たちは、キリストの光を頼りにして、歩んでいくのです。「ことば」なるキリストが創造の前から、父なる神に「向かって」、父なる神と親しい関係を持っていたように、私たちも、この光なるキリストに「向かって」キリストと親しい関係を持ちたいと願います。

 しかし、私たちが光に向かっていくことを、さえぎっているものがあります。それは「闇」です。

5:闇に輝く光の「ことば」

5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 

 この世界には、闇があります。闇があるというより、光が無い。光の無い世界が闇の世界と言えます。はじめに造られた人間アダムは、造られた当初は、神と共に、エデンの園で生活をしていました。しかしアダムは、神との約束を破り、エデンから追放され、神と共にいることができなくなりました。神不在の世界。闇の世界に追放された。

 人間は、私たちは、この闇によって、いのちなることばを、光なることばを見出せなくなった。神に近づきたくても、近づくことができなくなった。

 しかし、ことばが来てくださった、いのちが来てくださった、光が来てくださった。闇の世界に差し込む光があった。それがイエス・キリストです。

 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」

 父なる神様が、「ことば」によってこの世界を造られた時に、「光あれ」と差し込まれた光が、イエス・キリストによって、再びこの世界に輝き始めたのです。

おわりに

 神様は、はじめ、造られたこの世界で、人間と共にいてくださいました。しかし、アダムの罪によって、私たちは、光から離れてしまった。神と共にいることができなくなった。しかし神は再び、神の側から近づいて来てくださった。罪に陥った私たちが、神様のもとに立ち返るより先に、神様の側が光として来てくださった。再び、「あなたと共にいたい」と願って、来てくださった。

 光がどこにあるかわからない、私たちを正しく導く言葉がどこにあるかわからない、誰の言葉に頼ればいいのか、誰の言葉に従えばいいのかわからなくなる、この闇の世界で、私たちにはイエス・キリストが与えられている。また信仰生活を重ねていく中で、迷い、葛藤するような私たちに、イエス・キリストという立ち返るべき指針が明白に示されている。

 この闇の世界にあってもなお、しかし私たちには確かに御言葉が与えられている。確かにキリストの光は輝いている。この御言葉に向かって、このキリストに向かって、この「光」に向かって、今週一週間も歩んでいきましょう。