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マルコ15:33-39「十字架の真正面に立つ」〈受難週〉



はじめに

 今週は、受難週です。イエス・キリストが十字架で受けられた苦難を共に覚えたいと願います。マルコの福音書から、「十字架の真正面に立つ」という題で、イエス・キリストの十字架の出来事を共に見つめていきましょう。

 特に、イエスの十字架の出来事を、近くで見ていた者たちの反応に注目して、聞いていきましょう。

33-34:世の光の拒絶

33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。

34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

 イエスが十字架に架けられる。イエスは人々に嘲られ、拒絶されています。イエスをあざける声や出来事の描写を、いくつか聞いていきましょう。

 

 マルコの福音書15章。13「(群衆は)叫んだ『十字架につけろ』」

 19「(ローマ兵は)葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけた」

 20「ローマ兵はイエスをからかった」29「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった」

 31「祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲った」

 32「一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった」

 

 あらゆる人々がイエスを拒絶しています。ゴルゴタの丘を覆った闇のように、まさに人々の間に闇が広がっています。

 しかしイエスにとって最も苦しかったことは、人々からの拒絶ではありません。イエスの苦しみの最たるものは、愛する父なる神から見捨てられたということです。イエスは十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。

 なぜイエスがこのような苦しみを味わわなければならないのか。また罪なきキリストと父なる神との関係を隔てているものは何か。イザヤ書534-5節。

 

 「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、キリストは私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ」

 

 「キリストは私たちの背きのゆえに刺され、私たちの咎のゆえに砕かれた」。罪なきイエスと、父なる神との関係を隔てているものは、私たちの罪です。イエス・キリストは、私たちの病を、私たちの痛みを、私たちの罪と咎を担って、あの十字架に架けられている。

 しかし光なるキリストを拒絶し、闇に覆われている人々は、このキリストの御業に気づくことができません。

35-37:イエスの近くにいた者たち

35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いていった。「ほら、エリヤを呼んでいる。」

36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。

37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。

 

 「ほら、エリヤを呼んでいる」。イエスの切実な嘆きを、娯楽のように楽しもうとするのです。「エリヤが来るかどうか。みんなで見ていよう」。

 イエスの十字架の近くにいながら、彼らは闇に覆われ、まったく盲目になっています。

 そんな兵士たちの嘲りをかき消すように、イエスは、大声をあげて、十字架の上で息を引き取られました。この叫びを周りの人々は、また近くにいた兵士たちはどのように聞いたでしょうか。死を恐れて、絶望の内に嘆く、敗北の叫びに聞こえたかもしれません。

 しかし私たちは、この叫びを、罪に対する、死に対する、イエスの勝利の叫びとして聞きたいのです。ののしられても、嘲られても、父なる神に見捨てられるような経験をしても、私たちのために最後までこの苦難を耐え忍ばれたイエスの叫び。

 ルカの福音書によれば、イエスはここで「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と、叫んだのです。

 十字架の苦難の最中(さなか)でも、父なる神の御心に従い、父なる神に信頼し、罪に陥らず、死の恐れより、父なる神の救いに信頼し、息を引き取った。

 このイエスの叫びと共に、次のようなことが起こりました。

38:イエスの死によって起こったこと①

38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 

 イエスの死、イエスの叫びと共に、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神殿の幕は、聖なる神と、罪ある私たちとの関係を分けるものです。しかし今や、その神殿の幕は役目を終えました。

 私たちはこの時から、イエス・キリストの血によって父なる神の御前に出ることがゆるされているのです。私たちは、今ここで父なる神の御前に集い、神を礼拝することができているのです。

 神の救いが、イエスの犠牲によってすべての人に開かれたことは続く39節からもわかります。

39:イエスの死によって起こったこと②

39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」

 

 ローマの兵士たちを率いるリーダーが、イエスの十字架の出来事を見て、「この方は、本当に神の子である」と告白したのです。

 彼はイエスの十字架の正面に立って。そのように言ったのです。イエスを嘲っていた兵士たちも、イエスの近くにはいたのです。しかし、同じ十字架の出来事を、同じように近くで見ていても、全く別の反応を示したのです。

おわりに

 マルコは、この十字架の出来事を、起こった出来事だけ、淡々と記しています。

 つまり、これを読む私たちが、これを聞く私たちが問われているのです。この十字架の出来事を、あなたはどのように理解するか。

 今、私たちもこの十字架の近くに立たされています。ゴルゴタで起きた出来事を見ています。この十字架を前にして、近くにして、この出来事を、斜めにかまえて見て、彼は愚かだと嘲ることに終始するか、それとも、十字架の真正面に立ち、しっかりと見つめ、「この方こそ神の子」だと告白するか、問われています。

 イエスの十字架の出来事を斜めにかまえて見るなら、「自分には関係ない」と言って、イエスとの間に距離を置くことは可能です。

 しかし、十字架の真正面に立ち見つめるならば、問われずにはおかない。この死はなぜ起こったのか、誰のためであったのか、本当に私とは何の関係もないのか。私たちは、今ここで、このイエスの十字架の出来事は、まぎれもなく私のためであったと共に告白したいのです。