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ヨハネ1:6-13「キリストに頼るのみ」



はじめに

 前回は、「神のご計画の一貫性」と題して、ヨハネの福音書11-5節より、光なるキリストの到来の出来事を共に味わいました。「光あれ」とこの世界を造られた父なる神の光から離れて、闇の中を歩む私たちの世界に、イエス・キリストが再び、「光」として来てくださった。

 闇の世界に輝く光があることがわかった。またそこに向かって歩むならいのちを得られることもわかった。しかし今度は、「闇の世界にいる私たちが、どのようにしてその光に向かうことができるのか」という問いが生まれます。

 私たちはどのようにして光なるキリストに近づくことができるのでしょうか。今回のテキストは私たちが光に至る道筋を明らかにしています。

6-8:光の証人

6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネ であった。

7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 

 「神から遣わされた一人の人が現れた。私たちが光なるキリストに近づくために備えられた道筋の一つは、光について証しする「証言者」です。その証言者の名前はヨハネであった。

 この洗礼者ヨハネは、「神から遣わされた」と書かれています。私たちが光に至るための第一歩を、神が備えてくださっているのです。

 闇の世界にいる私たちは、自力で光に至ることができません。神から遣わされたこの証言者のガイドがあって初めて、光に至る道の一歩を歩み出すことができるのです。

 しかし証言者は、光ではありません。あくまでも光について証しする存在です。ここでヨハネは驚くべきことを語ります。私たちが光に至るために、光そのものがこの世界に到来すると言うのです。

9-11:受け入れられない光

9 すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。

10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

 

 「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」。この世界に到来しようとしている光は、まことの光です。

 しかし人々は、このまことの光を、知らなかった、さらには「受け入れなかった」とあります。しかし知らないはずはないのです。この世界はキリストにとっては、11節にあるように、ご自分のところ」、「自分の家」のようなものです。キリストは、自らが造ったこの世界に来たのです。自らが愛し続け、その到来を予告し続けてきた、イスラエルに来たのです。人々にはすでに知らされていて、キリストは、待ち望まれ、歓迎されるべき場所であるはずなのに、「ご自分のところ」で、知られず、受け入れられなかったというのです。

 光なるキリスト、この世界を造られたキリストは、もはやこの世界で歓迎されなくなっていたのです。しかしこの世界で、この光を、このキリストを受け入れる者たちがいました。

12:名を信じる

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 

 なぜキリストを知らない、キリストを受け入れないこの世界に、キリストを受け入れる人々がいたのか、キリストを信じる者がいたのか。

 それは、キリストが、もはや歓迎されなくなったこの世界に、知られず、受け入れられなくなったこの世界に、それでもなお忍耐深くとどまってくださり、人として歩んでくださったからです。

 キリストは、この世界に受け入れられないと知った時に、この世界を諦めて、すぐに父なる神のもとに帰ってしまうことだってできたはずです。しかしキリストはそうはなさいませんでした。この世界にとどまり、生きて、歩んでくださったのです。

 私たちは、この世界で、信仰を保って歩むことに、キリスト者として歩むことに、すでに多くの忍耐をしてきたことでしょう。いろんな信仰の戦い、霊的な葛藤があったことでしょう。今もそのような状況に置かれているという人もいるかもしれません。しかしその私たちの信仰の土台に、私たちの戦いを同じように戦い、私たちの霊的な葛藤を同じように、いやそれ以上に悩まれた、イエス・キリストの忍耐と、献身があることを覚えたいのです。

 私たちがこのイエス・キリストを受け入れるならば、私たちは、神の子どもとなる権利を与えられるのです。

 重要なのは、「その名を信じた人々には、神の子どもになる特権をお与えになる」とあるように、イエスの「名前」を「信じる」ということです。

 聖書の時代には、この「名前」ということは、重要な意味を持っていました。古代の人々の感覚にとって、名前というのは、その人の存在や、その人格のすべてを現すものです。

 私たちは、このイエスの「名前」を信じているのです。つまり、イエス・キリストというお方の全存在・全人格を信じているということを、この「名前」という言葉によって表現しているのです。

 そしてまた、この名前を、「信じる」ということが大切です。私たちは、聖書に示される生き方を忠実に成し遂げ、神の子どもとしてふさわしく成長できたから、神の子どもであると認められるわけではありません。イエス・キリストというお方を信じて、信頼して、神の子どもとされるのです。

13:神によって生まれる

13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

 神の子どもは血によってではない。つまり立派な血筋に属しているからとか、立派な環境にいるからではない。また神の子どもは肉の望みや人の意志によってでもない。つまり自分の力や、自分の頑張りによってでもない。私たちを神の子どもとしてくださるお方によってのみ、「ただ、神によって」のみ私たちは神の家族の、神の子どもとして受け入れられるのです。

おわりに

 神から離れ、闇の世界にいた私たちが、神に受け入れられ、神の子どもとされるのは、神が一方的にしてくださることなのです。光から離れる私たちが、光に至るための証言者を与えてくださった。イエス・キリストを拒絶し、知らない、受け入れたくないというような人々であふれる私たちのこの世界にキリストがとどまっていてくださった。また血筋や自分の能力によるのではなく、イエスの名を信じることで、イエス・キリストに信頼することで、神の家族に受け入れられる道を用意してくださった。

 私たちが光に至る道筋を、父なる神のもとに帰る道筋を、すべて神様の側で用意してくださいました。

 この恵みに立ち返り、今週一週間も、神に受け入れられた神の子どもとして歩んでいきましょう。