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ヨハネ1:29-39「来なさい。そうすれば分かります。」



はじめに

 先週は、Y先生が御言葉を取り次いでくださり、「導き手」としてのイエスの姿に、心を留めました。イエスは、私たちを救う「救い主」であるのみならず、私たちを確かにその「救い」に導く、「導き手」である。

 しかし私たちはなかなか、この「導き手」であるイエス・キリストを見出すことができません。そのため神は、私たちを、この「導き手」であるイエスに導く「導き手」をも備えてくださいました。洗礼者ヨハネです。

29-31:世の罪を取り除く神の子羊

29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」

 

 ヨハネはイエスを、「世の罪を取り除く神の子羊」であると紹介しています。羊とは、旧約の時代から、罪ある人間が神の御前に出るためにささげられてきたいけにえです。しかし羊は、私たちの罪を根本的には解決できません。いけにえの効力は一時的なもので、いけにえをささげた後、罪に陥るならば、神の御前に出るために、またいけにえを必要とします。

 しかし今や、イエスによって、「罪」そのものが取り除かれようとしている。神の御前に出ることを妨げている、根本的な原因そのものが取り除かれようとしているのです。

 バプテスマのヨハネが、洗礼を授けていたのは、私たちの罪を根本的に解決する神の子羊が来られたのだということを、人々に明らかにするためだと書かれています。バプテスマ、洗礼には大きく二つの意味があります。

 一つは、私たちの罪を洗いきよめるということ、そしてもう一つは新しく生まれるということです。ヨハネの福音書には書かれていませんが、イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。しかしイエス・キリストには、罪がありません。罪の洗いきよめは必要ありません。イエスが洗礼を受けた目的は、ヨハネが言うように「イスラエルに明らかにされるため」です。イエスは、バプテスマを受けることで、「ここからわたしの新しい働きが始まる」とを示しているのです。

 イエスの働きは、洗礼と共に開始されました。その洗礼の場面でイエスに何が起こったのか。イエスの働きのはじめには何があったのでしょうか。

32-34:聖霊によってバプテスマを授けるイエス

32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。

33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』

34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」

 

 イエスの洗礼の時、「御霊が鳩のように天から降って」イエスにとどまりました。イエスは、水ではなく、この御霊によって、この聖霊によって人々にバプテスマを授ける存在であると紹介されています。

 「バプテスマ」とは、「浸かる」「沈める」という意味の言葉です。私たちが聖霊のバプテスマを受けるなら、私たちはその聖霊の力の中に沈められ、聖霊が私たちにとどまり、聖霊に満たされるのです。

 ヨハネが行っていた水によるバプテスマは、一時的なきよめで、何度も受ける必要がありました。しかし聖霊のバプテスマは、私たちを罪の支配から根本的に解放し、今度は神の支配の中に新しく移すのです。

 なぜ罪から解放されるのか。それはイエスが、子羊として、私たちの永遠のいけにえとして、世の罪を取り除いてくださるからです。

  この罪を取り除く神の子羊が、どのようなお方であるかを知ろうとして、イエス・キリストについていく人がいました。イエスの最初の弟子たちです。

35-37:ヨハネの使命の達成

35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。

36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。

37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 

 ここでバプテスマのヨハネは自分の弟子に対して、「見よ、神の子羊」とイエスの姿を指し示します。すると弟子たちは、先生であるヨハネからすっと離れて、イエスの後をついて行ったのです。

 ヨハネは、自分の弟子さえも、自分のところにとどまっているように育ててはいなかったのです。

 自分は消えて、イエス・キリストが明らかにされる。私たちもこのような証し人でありたいと願います。

  バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエスのあとについて行きましたが、なかなか声をかけられずにいました。そのような弟子たちにイエスから声をかけてくださいました。

38-39:どこにお泊まりですか

38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」

39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 

 イエス様は、振り向いて、声をかけてくださいました。「あなたがたは何を求めているのですか」。

 ヨハネの福音書における、イエス・キリストの最初の言葉です。イエス様は、ヨハネの福音書書における最初のセリフで、「わたしこそが世の罪を取り除く神の子羊だ」とか「わたしがことばだ」「わたしが光だ」とは、言いませんでした。

 「あなたがたは何を求めているのですか」。最初に問いかけてくださるのです。私たちの求めを、私たちの願いを、私たちの必要を、聞いてくださる。それがイエス様です。

 弟子たちは答えます。「先生、どこにお泊まりですか」。イエスは、弟子たちの問いに対して「来なさい。そうすれば分かります」とお答えになりました。

 「分かったら、来なさい」ではなく「来たら、分かる」のです何もわからなくても、この先がどうなるかわからなくても、イエスの招きに信頼し、イエスがいてくださることに信頼し、一歩踏み出してみる。

 私たちがイエスを受け入れた時のことを思い起こしてみても、わからないなりに、それでもイエス様を信じますと、信仰の一歩を踏み出したのではないでしょうか。それぞれの信仰者としての歩みも、わからなくても、準備が完全に整っていなくても、「わたしのもとに来なさい」と言われるイエスの御声に信頼して従い、前に進んでいく、そのような信仰の一歩を積み重ねてきた歩みだと思うのです。

 2人の弟子もまた、このイエスの招きに応えて従いました。イエスというお方が、実際どのようなお方であるかわからない。それでも自分たちの先生であるヨハネから離れてイエスについていった。

 この2人の弟子の一人は、アンデレ、もう一人の名前は紹介されていませんが、このヨハネの福音書を書いた、ヨハネ自身であると考えられます。ヨハネは記します。「時はおよそ第十の時であった」。

 ヨハネはこの福音書を、人生の晩年に記しました。どれだけ歳をとっても、この時のことを時間まで覚えている。これからはイエス・キリストにとどまって生きるのだと決心したあの時のことを、ずっと覚えている。

おわりに

 私たちも今この時、自分自身がイエス・キリストと出会った時のことを思い起こしたいのです。何もわからないながらも、それでもイエスを信じますと告白した、あの時のことを思い起こしたいのです。

 また今はまだ洗礼は受けていないけれども、イエス様についてわからないことが多いけれども、今日の御言葉を通して、イエス・キリストから招かれていることを感じたら、イエス様のことを知りたいと少しでも思ったら、「イエス様、私はあなたのことがまだよくわかりません。しかし、あなたをもっと知りたいです。あなたご自身が私に教えてください」と、お祈りしてみてください。

 私たちがこのようにイエスの招きに応えて、信仰の道を歩み始めることができるのは、イエスが子羊として私たちの罪を取り除いてくださったからです。イエス・キリストの「来なさい」という招きを妨げる「罪」は、もはや取り除かれている。

 私たちはこの招きに応答して、今週一週間も、キリストにとどまって、感謝と喜びの内に、歩みましょう。