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ヨハネ2:1-12「イエスの『時』」



はじめに

 前回のヨハネ福音書の講解説教では、「イエスと出会った人たち」と題して、141節以降からイエス・キリストと弟子たちとの最初の出会いの出来事を見ました。

 弟子を集め、いよいよイエス・キリストの活動が開始します。本日の箇所は、そのイエス・キリストが、初めて奇跡を行ったカナの婚礼での出来事を描いています。

1-5:女の方

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。

2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

 

 結婚のお祝いの場面。喜びに満ちている状況で、ぶどう酒がなくなってしまう。イエスの母マリアが、気がつきました。状況をマリアはイエスに伝えます。イエスは言います。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」。親子関係とは思えない、どこか他人行儀な、それどころか母を遠ざけるような言葉遣いです。

 そして実際イエスは、ここで地上的な親子関係を超えた関わりをマリアと持とうとしているのだと考えられます。イエスは人間から何か指示されて、人間に従って働かれるお方ではない。父なる神のみこころに従って、ご自分の意志で、主権的に御業を行われるお方なのです。時を支配しているのは私たち人間ではありません。イエスはご自分の時に、ご自分の仕方で行動なさるのです。

 「わたしの時はまだ来ていません」。このイエスのお答えに、マリアは何かを感じたのでしょう。「あの方が言われることは、何でもしてください」。自分の言う事にイエスを従わせるのではなく、イエスの言う事に従うようにと、周りの人に呼びかけます。

6-10:給仕の者たちは知っていた

6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。

7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

8 イエスは彼らに言われた。「さあ、水を汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、

10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 

 イエスは、給仕の者たちに、水がめを水でいっぱいにしなさいと指示を出します。一つ100リットル以上入る

大きな水がめ。いつ終わるかわからないような作業をしながら、彼らは何を考えたでしょうか。疑問や不満、疲れがあったことでしょう。

 しかし彼らは、驚くほど忠実に従ったのです。イエスが、「水をいっぱいにしなさい」と言えば、彼らはいっぱいにしました。イエスが、「持って行きなさい」と言えば、持って行きました。

 この出来事で心を留めたいのは、9節の「給仕の者たちはそれがどこから来たのか知っていた」という言葉です。このぶどう酒が、ただの水であったことを、そしてただの水を、イエス・キリストがぶどう酒に変えてくださった、このぶどう酒はイエスから来ているのだと知っているのは、給仕の者たちだけです。

 何もわからないながらも、不満を感じながらも、疲れを覚えながらも、とにかく従った。彼らはその忠実な奉仕のゆえに、そこで神の御業が行われたのだということを知ったのです。私たちの教会における奉仕も、時に何のためにしているのか、何か意味があるのか、と迷い、葛藤し、悩むことがあります。しかし神様は、私たちの小さな奉仕を、たしかに用いて、御業を見させてくださいます。神と共に労苦する者は、神と共に喜ぶのです。

11-12:弟子たちは信じた

11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数(ひかず)ではなかったが、そこに滞在された。

 

 「弟子たちはイエスを信じた」。彼らは、すでにイエスとの出会いを果たし、イエスについていくと決心をしていました。しかしここで、ようやく「イエスを信じた」と記されています。

 イエスのことをすべて知っている者が弟子となるのではない、すでに信じきった者が弟子となるのでもない。まだ信じきれないところがあるけれども、それでもついていった者が弟子と呼ばれている。そして彼らは、イエスの御業を見て、イエスを信じていくようになるのです。

 一つ気になるのは、弟子たちが何を信じたのかということです。この物語の言葉だけを追っていくならば、イエスの弟子たちがこの婚礼の場面で特に何もしていないことがわかります。弟子たちはイエスの何を信じたのでしょうか。11節に出て来る「最初のしるし」という言葉にヒントがあるように思います。

おわりに

 ヨハネは、この奇跡を、イエスの「最初のしるし」であったと、特別な意味を込めて証言しています。

 4節「わたしの時はまだ来ていません」。ここでイエスが言う「わたしの時」とは、イエスの十字架の出来事を指しています。カナの婚礼での奇跡は、「しるしとしての奇跡」です。イエスの時、イエスの十字架で何が起こるのかをあらわすための奇跡なのです。

 イエスの時、イエスの十字架で何が起こるのか。6「そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった」。水がめの水は、ユダヤ人のきよめのしきたりの水であるということ。つまりこの水は、ユダヤ人の律法にならうきよめの水です。きよめの水がぶどう酒に変わる。ぶどう酒というのは、血を象徴的にあらわしています。つまりカナの婚礼の出来事において、ユダヤ人のきよめのしきたりの水を、ぶどう酒に変えるというのは、水によるきよめではなく、イエスの血によってきよめられる時が来るということを示しているのです。「水は、あなたの罪を完全にはきよめない、しかしわたしはわたしの血によって、あなたがたの罪を完全にきよめる」。

 これがイエスの最初のしるしです。ここには、私たちの罪を完全にきよめ、私たちに新しい命を与えるために流されたイエスの血潮、私たちに対するイエスの愛が示されています。この十字架の血によるきよめの完全さに立って、イエスを信じる者としての歩みをここから始めていきましょう。