Ⅱテモテ3:14-17「御言葉の確信にとどまる」



はじめに

 2022年、私たちは「御言葉によって生きる」をテーマとして、今年の教会の歩みをはじめました。これから第5週の日曜日には、このテーマに基づいて、共に御言葉を味わいたく願っています。

 この御言葉が書かれている第二テモテは、使徒パウロが晩年に書いた最後の手紙と言われています。テモテに対して、パウロが死ぬ前にどうしても伝えたかったことは、一言で言えば、「御言葉に信頼しなさい」ということです。

 パウロがいう御言葉への信頼とは、どのようなものでしょうか。本日の箇所から共に聴いていきましょう。

14a:学んで確信したところ

14a けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。

 

 エペソ教会の偽教師は、今まで誰も語らなかったようなことを言って、自分の言っていることが、新しい啓示、新しい真理であるかのようにして、人々の関心を惹きつけて教会を混乱させていました。

 新しく斬新な主張は、人々の関心を集めます。しかし私たちには、すでに知らされている真理にとどまる勇気が必要です。すでに知らされている真理とは何でしょうか。とどまるべき真理とは、何によって教えられるのでしょうか。

14b-15a:何にとどまるか

14b-15a あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

 

 学んで確信したところにとどまるというのは、幼いころから母や祖母によって伝えられた旧約聖書の教えにとどまること。そしてパウロや使徒たちの教えにとどまるということです。

 私たちはその教えを今与えられている66巻の聖書から知ることができます。ここで言われている旧約聖書はもちろんのことですが、私たちは新約聖書からイエスの教えを、またパウロや使徒たちの教えを知ることができます。

 私たちにすでに知らされているもの、また私たちがとどまるべき真理というのは、今与えられているこの旧・新約66巻の聖書です。続いてパウロは、その聖書の目的が何かを明らかにします。

 

15b:聖書の目的

15b 聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

 

 聖書の第一の目的は、キリスト・イエスに対する信仰による救いに、人々を導くことです。キリストを中心にして、信仰によって、救いを目的として読む時に、聖書はその力を最大限に発揮するのです。

 私たちは時に、励まし・慰めの言葉や教訓を得る目的、つまり生活の知恵のように聖書を読む場合があります。あるいはただの歴史的な資料として、研究する場合があります。もちろん聖書にはそのような記述があり、そのように読んでも良いのですが、それは聖書の中心的な目的ではないということを覚えておく必要があります。

 聖書の一番の目的は、ここにあるように、「イエス・キリストに対する信仰による救い」なのです。

 私たちにとっての「救い」とは、キリストの血によって私の罪が赦されて、父なる神に受け入れられ、神の子どもとされ、父なる神と親子のような親しい関係に入れられることです。

 

16-17:教えと戒めと矯正と義の訓練

16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 

 御言葉は、救いを受けさせることにとどまらず、私たちの神の子どもとしての成長のために生きた力となって働きかけます。

 「神の霊感」とは、聖書全体でこの箇所だけで使われる珍しい言葉です。ギリシャ語で、「神」をあらわす「セオス」と、息/息吹をあらわす「プネオー」を合わせた、「セオプネヴストス」という造語で、直訳するなら「神の息吹」による、です。私たちを生かす真実の言葉は、私たちと同じく神の息が吹き込まれた御言葉です。御言葉は私たちの呼吸です。私たちは神の息で、生きるものとされたのですから(創2:7)、神の息が吹き込まれた御言葉によって生きる存在なのです。

 16節の後半部分には、「聖書は……教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」とあります。聖書は私たちに、正しい信仰を「教え」、偽りの信仰にいかないように「戒め」、私たちが罪に傾いたら「矯正」し、神の義に生きることができるように「訓練」します。

 

おわりに

 テモテは、エペソ教会にある様々な問題を見て、「自分ではこの問題を解決できない」「自分は、パウロ先生のように大胆に神に従う歩みができない」と、自らの力の限界、自らの弱さを見て、気落ちしていたかもしれません。

 だからこそパウロは、「聖書はすべて……」と、聖書を主語にしながら、つまり御言葉を中心にしながら、テモテを励ましているということに心を留めたいのです。

 私自身の確信にとどまろうとするなら、自らの不安や恐れに基づく不安定な信仰の歩みをすることになります。しかし私に力や自信がなかったとしても、御言葉には力があるのです。私の確信にとどまるのではなく、「私たちの信仰の歩みを確かに導く」と約束する、御言葉の確信にとどまって、歩んでまいりましょう。