使徒2:41-47「世界最初の教会」



はじめに

 本日はペンテコステです。ペンテコステは聖霊降臨祭と言われることもありますように、聖霊なる神が来てくださったことを、共に覚え、改めて感謝する記念の日です。

 聖霊が来られた時、何が起こったか。キリストの名において一つとなる集まりが生まれました。世界最初の教会の誕生です。私たちは今日、世界最初の教会の姿から、改めて共に教えられたいと願います。

41-42:最初の教会の誕生

41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

 

 五旬節と呼ばれる祭りのさなか、イエスの弟子たちは、共に祈っていました。その集まりの中に、聖霊が来られ、弟子たちは聖霊に満たされました。弟子の内の一人、ペテロは、その聖霊の導きに従って、祭りのために集まってきていたユダヤ人たちの前で説教をしました。ペテロの説教に応答し、悔い改め、その日の内に洗礼を受けた者が3000人も起こされたのです。最初の教会の誕生です。

 彼らは、いつも「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを」ささげていました。ここから最初の教会が大切にしていた4つのことがわかります。

 

 1)使徒たちの教えを守ること、2)交わること、3)パンを裂くこと、4)祈ること。

 

 まず「使徒たちの教え」です。使徒たちの教えが重んじられたのは、彼らがイエス・キリストと共に生き、イエス・キリストが教えてくださったことを、知っているからです。今はいなくなってしまったイエス・キリストを伝えることができる存在です。使徒たちの教えは、今も新約聖書として、そのかたちを残し、今の私たちにまで伝えられています。

 

 2番目は「交わり」です。イエスを信じた者たちは、一人でその信仰を鍛錬したわけではありません。集まり交わることで信仰を養いました。注目したいのは「教え」と「交わり」というその順番です。まず大事にすることが「教え」、つまりイエス・キリストと「私」が結びつくこと、私が神に結びつくこと。そして次に大事することが「交わり」、神に結びついた一人一人がさらにお互いに結びつくという順番です。

 そしてこの神とのつながり、神とつながったキリスト者同士のつながりが、なぜ生まれるのかを明らかにするのが「パン裂き」です。つまり「聖餐式」です。聖餐のパンは、割かれたキリストのからだです。ぶどう酒は、流された血をあらわしています。イエス・キリストが十字架で死なれ、血を流されたことにより、私たちは罪赦され、神の家族に加えられるのです。聖餐式は、私たちが何において一つなのかを私たちに教えてくれるのです。

 このキリストの名において集まる群れは、人間的な集まりを超えた群れであるからこそ、私たちはお互いに「祈る」のです。4番目は「祈り」です。お互いをキリストにあるつながりにおいて、互いを愛し、気にかけ、心配しているからこそ祈りが生まれるのです。

 「教え」によって神と結びついたものは、神の愛と奉仕を実践するために「交わり」を形成します。この神とのつながりと人々とのつながりは、キリストの死と復活によるものであることを「聖餐式」が明らかにします。またキリストの血によって神の家族に加えられ、その神の家族関係の中で養われていることを教えるのが「聖餐」です。そして私たちはキリストによってつながっているからこそ、お互いに「祈る」のです。

43-45:最初の教会の姿①

43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。

44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、

45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

 

 キリストの名によって一つとなる集まりは、人々に恐れを生じさせました。キリストの名によって一つであるので、教会には、ユダヤ人もいれば異邦人もいる、お金持ちや貧しい者も一緒にいる、子どもからお年寄りまで多くの人が集まっている。このように多種多様な人が集められ、共に交わりをもっているというのは、人の力によってはあり得ません。そこには、人の理解を超えた、神の力がたしかにあらわされているのです。この集まりには、明らかに人間の力を超えた存在が働きかけている。それを感じるがゆえの「恐れ」です。

 すべての物を共有していた最初の教会の姿から、私たちが学ぶべきことは、すべてのものを売り払って共有して、毎日一緒に生活しましょうということではなく、教会とは、お互いにささげあって、立てあげていくものであるという認識です。これは私たちもすでにしていることです。私たちは、献金をささげ、奉仕をささげ、祈りをささげ、時間をささげて、ここに集っています。共に神の御前にひれふし、支え合い、助け合いながら、教会を形成しているのです。

46-47:最初の教会の姿②

46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

 

 」と「家々」。つまり彼らは公の場所だけでなく、私生活においても主との交わり、キリスト者同士の交わりを豊かにもっていました。キリストとの交わりと、キリストに結ばれたキリスト者同士の交わりが大切にされていたということです。

 そして彼らは、喜びと真心をもって食事をしていました。この「喜び」と「真心」という言葉が、聖餐にではなく、「食事」にかかっていることは興味深いです。キリストによって罪赦され、神に受け入れられ、愛されている神の子どもにとっては、「食事」という日常的なことさえも感謝であり、喜びであったということです。

 次に注目したいことは、彼らが「神を賛美し」同時に、人々から好意をもたれる集まりであったということです。神に愛され、人に愛される。これはイエス様のお姿でもあります。使徒の働きを書いたルカは、福音書の中で、イエスの少年時代について「イエスは……神と人とに愛された」(新改訳第3版)と記しています。キリストのからだである私たちもまた、神に愛されると同時に人々からも好意をもたれる集まりでありたいと願います。

 何より覚えたいことは、救われる人を起こし、集め、交わりを形成しているのは、主ご自身であるということです。「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」。主が成し遂げてくださるのです。主ご自身が、私たちを集めてくださって、私たちを成長させてくださって、私たちを一つにしてくださるのです。

おわりに

 キリストの名によって集まった最初の教会ができた当初、誰が2000年後もこのようにして、キリストの名による集まりが続くと想像したでしょうか。イエス・キリストは十字架で死にました。弟子たちは、逃げ出しました。

 しかしキリストは復活しました。弟子たちには聖霊が降りました。1日の内に、3000人もの人が、キリストを受け入れ、洗礼を受けました。彼らは、キリストの教えを大切にし、交わりを大切にし、聖餐を大切にし、祈りを大切にしていました。

 そして2000年経った今も、同じように全世界に、教えを大切にし、交わりを大切にし、聖餐を大切にし、祈りを大切にする集まりがあるのです。教会を、守り、支え、導いてくださる、神の御業に期待し、信頼して、これからもキリストの教えと、交わりと、聖餐と、祈りを行い、大切にし続ける群れであることができるように、共にお祈りしましょう。