ヨハネ2:13-25「見るべきしるし」



はじめに

 本日の箇所は「宮きよめ」と呼ばれる出来事です。イエス様が激しい怒りをあらわにして、宮の中で、暴れている。優しいイエス様が、こんなにも怒っているのはどうしてか、この怒りをどのように考えたらいいか。

 一見受け入れがたいと思えるこの箇所から、今日、主の恵みを共に味わい、受け取りたいと願います。

13-17:礼拝の本質はいけにえではない

13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、

16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 

 むちで、羊や牛を追い出し、両替人の金を散らして台を倒し、激しく怒るイエス様。家畜を連れていけない人はお金を持っていって牛や羊を買うということは、律法を通して神様から教えられていたことです。両替をするのも、古くからイスラエルで使われていたシェケルという貨幣に変える必要があったからで、シェケルにこだわるのも、神が律法において定めていたからです。家畜を売る者や、両替人たちは、ある意味で一生懸命律法を守ろうとしている。

 イエスはなぜ、こんなに激しく怒っているのか。私は、16節の「鳩を売っている者たちに言われた」という言葉に、謎を解く鍵があるのではないかと考えています。神殿の儀式における「鳩」とは、どういういけにえだったのか。「もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く」(レビ5:7)。鳩というのは、羊を買うことができない貧しい人々が、それでも神の御前に出ることができるように、神様が配慮として指定してくださったいけにえなのです。羊を買えないような貧しい者でも、私の御前に来て欲しいという願いなのです。

 しかし律法を守ることに固執していたユダヤ人たちは、鳩がなければ礼拝をささげることができないようにしていた。多くの人を礼拝に招くことの象徴だった鳩が、人々を礼拝から締め出すような仕方で用いられてしまっている。いけにえはあくまでも手段であって、その目的は私たちが神様に立ち返ることです。詩篇51篇に「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」あるように、神様が、本当に願っていることは、いけにえそれ自体ではなく、真実な悔い改め、人間が神に立ち返り、神を知ることです。いけにえをささげることに一生懸命になって欲しいのではない。心を神様に向け直すことに一生懸命になって欲しい。

 律法に固執するユダヤ人たちは、礼拝の本質を見失っていました。イエスの過激な行動は、そのように霊的に眠ってしまっているユダヤ人たちを、目覚めさせようとするものであったと言えるでしょう。

18-22:ご自分のからだという神殿

18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。

22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

 

 神殿で過激な行動をとったイエスに対してユダヤ人たちは問い詰めます。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」。それに対するイエスの答えは、「神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」です。イエスの見せるしるしは、神殿の破壊とそのよみがえりです。

 21節が、この神殿とは、イエスご自身のからだであると説明しているように、言い換えるなら、イエスのしるしとは、イエスの死と、そして復活です。イエス・キリストはその死と復活によって、「わたしが新しい神殿である」と、私たちに明らかにしているのです。イエス・キリストは永遠のいけにえとしてささげられ、私たちの罪のさばきを代わりに負ってくださる。それがイエスの十字架の死の力です。そしてイエスは、新しい神殿としてよみがえり、私たちを父なる神へとつなげてくださいます。それがイエスの復活の力です。

 私たちは、このイエス・キリストに信頼することで、罪赦され、神に受け入れられ、神の子どもとしての歩みを始めることができるのです。自力で神のもとに向かうことのできない私たちを、イエス・キリストが、父なる神のみもとに運んでくださるのです。

 

23-25:私たちが本当に知るべき「しるし」

23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、

25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるのかを知っておられたのである。

 

 エルサレム神殿で、イエスのしるしを見た多くの人々が、イエスを信じました。「十字架の死と復活」を示すしるし以外の様々なしるし、奇跡が行われたのでしょう。人々は、それを見てイエスを信じたのです。しかしイエス自身は、彼らのことを信頼していません。つまり彼らは、見るべきしるしではなく、イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」とイエスを信じたのです。奇跡を見たので信じた、そのような信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者をイエスは信じません。イエスは「人のうちに何があるのか知っておられた」とあります。人の気持ちがどんなに変わりやすく、揺れ動きやすいものであるかを知っています。奇跡を見たので信じたものは、すぐにまた違うものに心を寄せられ、イエスから離れていってしまうでしょう。

 どのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの死と復活」しるしこそ信じなければなりません。むしろ私たちの信仰のためには、これだけあれば十分なのです。

おわりに

 十字架の話は何度も聞いた、復活の話は聞き飽きた。だからそんなものではなく、他のしるしを見せてください。私たちの心に、そのような思いがないでしょうか。自分が願う通りに、神様が動いてくださって、しるしを与えてくれるなら、確かに安心できるかもしれません。

 しかし、しるしを求める思いは、いつの間にか、イエス・キリストご自身に対する信頼という、信仰の基本的な態度を見失わせることにつながります。私たちの礼拝の本質は、その心がどこに向いているかということです。私たちの心は、神様に向いているでしょうか。

 私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活の上に、私たちの信仰を立てあげたい。イエスの十字架の死と復活は、私たちをたしかに救いに導きます。これで十分です。私たちはもはや、自分の信仰を自分で作り上げなくて良いのです。自分の力で成し遂げようとしなくて良いのです。すべてを成し遂げたイエス・キリストがしてくださったことに立ち返ることこそが必要です。私たちの救いのために必要なのは、イエス・キリストの死と復活の力だけです。それだけで十分です、と共に告白する祈りをささげましょう。