ヨハネ3:1-15「キリストにあるいのち」



はじめに

 前回まで取り扱っていた2章に描かれるイエスの奇跡や、大胆な行動を通して、イエス・キリストという存在は、人々に知られはじめます。そしてイエスについて、もっと知りたいと願う人が出てきました。それが本日のテキストに登場する、ユダヤ人の議員であるニコデモです。

1-4:新しく生まれなければ

1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」

4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 

 ニコデモというユダヤ人の議員がイエスのもとを訪ねてきました。ニコデモは、イエスについてわかったようなことを言います。「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」。

 そのようなニコデモに対してイエスは言います。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは、「こんな年老いた者がどうやって生まれ直すことができるだろうか。お母さんのお腹に入り直すことなんかできません」と、およそ優秀な人とは思えない勘違い発言をします。

 おそらくニコデモは、ここで動揺していたのではないかと思うのです。自分という存在を根底から揺るがされる、そのような感覚があったのではないかと思うのです。彼は年を重ねた、ユダヤ人の議員です。人々を教える存在です。「私はもうこれから新しく知るようなことはない」と思っていたかもしれません。しかしイエスとの出会いで、その自信が崩されようとしている。

 神の国を見るには新しく生まれなければならない。「新しく」とは直訳すれば「上から」という言葉です。そして、「生まれなければ」とは、文法的には、受け身の言葉ですので、「上から生まれさせてもらわなければ」という言葉です。

 つまり、神の国というのは自分の力や努力を積み上げていって、自分がその領域に達して、見る、入る、というような世界ではない。自分の力ではなく、上から、つまり神の力によって、生まれさせて頂くことで、見える世界なのです。神の国は自分で成り上がっていく世界ではなく、神によって変えて頂く世界です。

 自分の力でたどりつけないなら、私たちはどのようにして神の国を見ることができるのでしょうか。

5-8:霊によって生まれる

5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 

 神の国を見る、あるいは神の国に入る方法は、水と御霊によって生まれることです。水というのは、きよめをあらわしています。まず私たちは、自らの罪がきよめられなければならない。そして御霊は、私たちに与えられる新しい命をあらわしています。私たちが今後、自分の力で生きていくのではなく、神によって与えられたもので生きていく。その命の新しさを示しています。罪のきよめと神の力によって生かされる命。それが水と御霊による誕生です。罪の力によって神から離れるような方向を向いて生きていた私たち。その私たちの罪の問題が解決され、今度は、神の力によって、神との関係の中で、神に従って生きる命が与えられるのです。それが私たちの新しい誕生です。

 イエス様は、このように人を新しく生まれさせる聖霊の働きを、「風」に例えます。風は私たちの思いどおりにはなりません。私たちの指示を受けて働きません。私たちが、新しく生まれたのは、クリスチャンになったのは、私たちが神様に、新しく生まれさせよとか、私をクリスチャンにせよと言って、そのようになったわけではありません。神様が、神様の時に、神様の仕方で、私たちに働いてくださり、私たちの力によらず、私たちを新しく生まれさせてくださり、神を受け入れることができるようにしてくださり、神を信じることができるようにしてくださったのです。私たちが救いに関してできることは、ただただ、私の心を造り変えてくださって、私を救ってくださった、神様の御業に感謝し、讃美をささげることだけです。

 ニコデモは「どうしてそのようなことがあり得るでしょうか」とさらに質問を重ねます。

9-15:永遠のいのちを持つ

9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。

11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。

12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

 私たちはどうしても確かさを求めてしまいます。何か見えるものが欲しいとそう思います。そして神様はそういう私たちの弱さをよくご存じです。そのため神様は私たちにも見える、人としてのイエス・キリストを、この世界に送ってくださいました。11節でイエスは言います。「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししている」。イエス様はご自身も知らないようなことを私たちに伝えているのではなく、確かに知っていて、見ている、聖霊の働きを伝えてくださっているのです。私たちは、このイエスの言葉に信頼したいのです。

 そしてイエスは、この地上における使命を14節で明らかにします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」。人の子が上げられるというのは、まず十字架です。イエスは、十字架に上げられます。さらに人の子は天に上げられる。イエスの昇天の出来事を指しています。このイエスの十字架の死と、昇天が、私たちに新しい命を与えます。

 私は本当に新しく生まれているのだろうかと悩む時に、十字架に上げられ、天に上げられたイエス・キリストを見上げましょう。そこには確かに、罪の赦しと、新しい命があります。

おわりに

 私たちはもはや自分の力で、自分の人生を生きているのではありません。キリストにある、キリストによる、人生を生かされているのです。私たちは、キリスト者なのです。キリストにある者、なのです。

 私たちは不安になります。私の罪は本当に赦されるのだろうか。私は神に従って生きることができているだろうか。

 私自身の内に、確かさがないからこそ、私たちは今一度、十字架に上げられ、天に上げられたイエス・キリストを見上げたいと思います。このお方が、たしかに私たちの罪を赦し、私たちに命を与えてくださる。私たちの思いを超えて、想像を超えて働く神の力に信頼して、今週一週間も、キリストにある者としての歩みを始めていきたいと願います。