ヨハネ4:1-15「神の救いはどこにでも」



はじめに

 前回は「愛は決断に生きる」と題して、ヨハネの福音書の331-36節の御言葉を味わいました。31節には、「上から来られる方(すなわちキリスト)は、すべてのものの上におられる」とあります。

 すべてのものの上に、神の愛がある、イエス・キリストがおられる。神の救いに、対象外はありません。神様は文字通り、「すべて」の人を救おうとしておられる。神様の救いは「どこにでも」届く。今日の聖書箇所から、その恵みを共に味わいたいと願っています。

1-5:サマリアに向かって

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、

2 —バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが—

3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

 

 イエスは、ガリラヤに行こうとされました。ガリラヤというのは、平たく言えばイエスの地元です。ユダヤからガリラヤに向かうためには2つのルートがありました。一つは、ここに記されているように、サマリアを通るルート。もう一つは、そのサマリアを避けるようにして、遠回りをするルートです。

 ユダヤ人とサマリア人というのは、ものすごく仲が悪い。そういった事情から当時ユダヤ人たちがガリラヤに行く時、サマリアというのは遠回りをしてでも避けたい場所なのです。しかし4節には、その「サマリアを通って行かなければならなかった」とあります。何かに制限されていたということではないと思います。ここにはむしろ、「サマリアに行く必要があるのだ」というイエス様のご意志があるように思います。

 そのサマリアで、何が起こるのか。それは、ある一人の女性との出会いです。

 

6-9:わたしに水を飲ませてください

6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

 

 旅の疲れを覚えたイエスは、井戸にこしかけ、一人のサマリア人の女性に声をかけました。時間は第六の時。正午12時。一日の最も暑い時間です。水を汲みに行くならば、日中は暑いので、朝方か日が落ちてきたころに行くというのが普通の考えです。しかしこの女性は日中の暑い時間に水を汲みにきた。彼女には、人付き合いをすることが難しい事情がありました。他の人々との関係に壁があった、そういう女性です。

 サマリアの人々というのは、そもそもユダヤ人からしたら、神を捨てたような人たちだという認識がありました。神の祝福がない、神から見捨てられた、ユダヤ人からそう思われているサマリア人。そのサマリア人の中でもさらに、さげすまれ、遠ざけられてしまっている、一人の女性。神の祝福から遠いとされる人々の中でも、さらに神の祝福は及ばないと思われているような、女性。

 しかしイエスは、この女性に会うことを望まれた。「サマリアを通って行かなければならなかった」。この女性に、出会うためにです。ここにも、こんなところにも、神の愛の御手が伸びている。

 イエスは、この女性に「わたしに水を飲ませてください」と話しかける。この一言は、多くの壁を乗り越える一言なのです。純潔を守ろうとするユダヤ人の男性は、通常自分から女性に話しかけることをしません。それは道徳的にも問題がある行為だと考えられていました。そういった男女の壁、道徳的な壁。またユダヤ人とサマリア人という人種的・宗教的な壁があります。そのすべての壁を乗り越えてイエスは、「わたしに水を飲ませてください」と話しかける。神の声が、今、このサマリアの女性のところに届いた。

 このサマリアの女性の驚きは、私たちの驚きでもあります。神から離れ、神に反抗していたような私たちに、神の声が届いた。イエス・キリストは、私たちと神との関係を妨げようとするあらゆる壁を超えて来てくださる。ここにも、この私にも神の救いが届いた。この恵みを今日、共に覚えたいのです。

10-12:生ける水

10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手に入れられるのでしょうか。

12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。

 

 イエスはこの女性に出会って、何を知らせようとしているか。ここには二つのことが記されています。一つは、「神の賜物」。もう一つは、ご自身が誰なのか、ということです。本日の箇所からは、「神の賜物が何か」ということを考えたいと思います。

 「神の賜物」というのは、「神のプレゼント」ということですけれども、それが「生ける水」だとあります。「生ける水」とは何のことでしょうか。同じヨハネの福音書の737-39節に書かれています。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである」。「生ける水」というのは、信じる者に与えられる「聖霊」のことです。

 しかしこの時点ではまだ、この「生ける水」が、「聖霊」であるということは、この女性にはわかりません。サマリアの女は、イエスに対して、「その水はどうやって手に入れるんですか。」と、疑問を率直にぶつけます。

 

13-15:内で湧き出る泉

13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。

14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでます。」

15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 

 生ける水、聖霊とはどのようなものなのか。それは私たちの心の渇き、魂の渇きを満たす水です。

 私たちは、心の中に何となくある不安、恐れ、満たされない思いを解決しようと、あらゆる

ことをします。ある人は買い物をしたり、ある人は自分が何かをがんばることで人からの評価や称賛を得ようとしたり、ある人はSNSを通して人とのつながりや「いいね」を求めたり。そうすることで、満たされない思いを埋めようとするかもしれません。

 それらは確かに、満足、安心、満たしを与えてくれます。しかしそれらはすべて一時的で、私たちはまた乾いてしまう。

 しかしイエス様は言われます。「決して渇くことのない水がここにある。それはあなたの内側で泉になる水だ」と。私たちは、自分の満足しない思いを満たすために、外側を一生懸命変えようとします。しかし、神様が変えようとしているのは外側ではなく私たちの内側、私たちの心そのものです。自分の外側のものが変化しなくても、そこに置かれている私自身の心が変えられる。

 ダビデは詩篇でこのように歌います。「主は私の羊飼い。私(わたくし)は乏しいことがありません。……たとえ死の陰の谷を歩むとしても私(わたくし)はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」(詩23:1,4)。

 平坦な道を歩いているから、食べるものやお金がいっぱいあるから、乏しいことがないのではなく、神がともにおられるから乏しいことがないと歌うのです。死の陰の谷を歩むとしても、です。

 神様が造られた私、神様が治めているこの世界ですから、私たちの満たされない思いを満たすことができるのは、神様ご自身だけです。私たちがどのような恐れ、どのような危険、どのような不安の中にあっても、聖霊は「あなたは神様のものである。この神様の御手の中にあなたはいるのだ」という揺らぐことのない平安を与えてくださいます。

おわりに

 神様の御手が届かないところはありません。人々は、サマリアなんて神は見捨てただろうと思っていた、特にそのサマリアでも嫌われているような人のところに、神の祝福はないだろうと思っていた。

 しかしイエス・キリストは、私たちの思い込み、私たちの想像、私たちと神とを隔てるすべての壁を超えて、この一人の女性に、そしてこの私に出会ってくださる。満たされない思いを、もう他の何かに求めなくて良い。その求めを、わたしを求める思いに変えなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。