ヨハネ4:16-26「渇きを潤すイエス」



はじめに

 先週は、ヨハネの福音書41-15節を見ました。イエスは、サマリアの女性との対話を通して、2つのことを教えようとしておられます。一つは、イエスが何を与えようとしているか、ということ。もう一つは、イエスが誰であるか、ということです。前回の箇所では、イエスが何を与えようとしているかについて教えられました。イエスは、この女性に生ける水、つまり聖霊を与えようとしている。

 今回の箇所では、イエスが誰であるのかが明らかにされます。イエスはサマリアの女との対話を通して、少しずつご自身の姿を明らかにしてくださいます。

16-18:五人の夫

16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。

18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

 

 1節戻って、15節には「主よ。私(わたくし)が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私(わたくし)に下さい」とあります。いくつかのやり取りを経て、ようやく彼女自身の口から水を求める言葉が出てきました。

 イエスはどう応えたでしょうか。16節「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。女性は戸惑ったことでしょう。「渇くことのない水を願っているのに、なんで夫の話をするのか」。まったく違う話題が始まったように感じられます。

 なぜイエスはここで話題を変えるのか。その答えは、「話題は変わっていない」です。渇きを満たす水を願う女性に対して、イエスはここで、「あなたはこれまで、なにで自分の渇きを満たそうとしてきたのか、よく考えなさい」と問うているのです。

 この女性は今まで5人の男性と婚姻関係を持ってきました。この女性は、自分がひとりぼっちで、孤独で、何か満たされない思いを、男性との関係によって満たそうとしてきたのです。自分の力で、この渇きを満たすことができなかった。イエスが与えようとしている渇くことのない水を得ようとするのであれば、私たちはまず自分自身が渇いているということに気づかなければなりません。自分が渇いていることを認めることでようやく私たちは、渇いている自分自身をイエスの与える水で満たすことができるからです。

 しかし私たちは、渇いている自分自身を認めることができないことがあります。この女性もそうです。自分自身を直視することを避けるようにして、サマリアの女は、話を別の話題に移そうとします。

19-24:御霊と真理による礼拝

19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。

20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

 女性は、自分自身の渇きに向き合うことを避け、話題を別の問題に移します。礼拝の場所についての話題です。ユダヤ人はエルサレムで礼拝を献げ、サマリヤ人は、ゲリジム山と呼ばれる山で礼拝を献げていました。ユダヤ人とサマリヤ人にとって、礼拝というのは、自らの優位性を示す一つの手段となっていました。エルサレムこそが正統な礼拝の場だ。いいや自分の先祖たちが礼拝を献げて続けてきたゲリジム山こそふさわしい礼拝の場だ。

 しかしイエスは言います。あなたがたの先祖が、父たちがどうしてきたか、ではなく、わたしたちのまことの父である神が何を願っているかを知りなさい。それが23節にあるように、「御霊と真理による礼拝」です。

 まず御霊による礼拝とは何でしょうか。ユダヤ人もサマリヤ人も、エルサレムとかゲリジム山とか、ある場所にいくことで神とのつながりをしかし聖霊が内に住んでいる人たちは、どこかにいくことで神につながるのではない。聖霊によって神との関係を持っているのです。それが御霊による礼拝です。

 それでは真理による礼拝とは何でしょうか。それは、神様についての正しい知識を持っての礼拝です。サマリア人というのは伝統的にモーセ五書だけを大切にします。それ以外の、詩篇とか預言書とか、歴史書を彼らは重んじません。しかし私たちは神を知るために、聖書全体を知る必要があります。私たちは、どうしても自分の好きな箇所、読みやすい箇所を選んでしまいがちですが聖書全体から神を知るということを大切にしたいと教えられます。

 父なる神様はこのような「御霊と真理による礼拝」を求めています。覚えたいことは、御霊も知識も、自分で得るものではなく、神が与えてくださるものであるということです。私たちの霊性や信仰は弱く、また私たちの知識は貧しいからこそ、神様が与えてくださいと願い求める。そういう祈り心をもって礼拝に備え、礼拝を献げていきましょう。

 サマリヤの女性はこのようにイエスが教えてくださっているのにもかかわらず、さらに話題を逸らそうと試みます。

25-26:メシアなるイエス

25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 

 サマリヤの女性の最後の抵抗です。「旅の方。。メシアが来たらすべて知ることができるから大丈夫です。私はその方を待つことにします」。イエスとの対話を打ち切るような、物言いです。

 イエスは、そんな女性に対して、最後に驚くべきことを言います。「あなたと話しているこのわたしがそれです」。あなたの渇きを満たすのも、あなたにすべてを知らせるのも、わたしだ。

 神様を礼拝することよりも、自分こそが正しいと礼拝の場所にこだわってしまうような私に、神への正しい知識を持っていない私に、この貧しい礼拝者である私に、イエス・キリストは会いに来てくださる。

 渇いていてもいい、強い信仰がなくてもいい、すべてを知る知識がなくてもいい、とにかくわたしのもとに来なさい。わたしが満たす。わたしが知らせる。と言ってくださるのです。このイエスの招きに応えて、私たちは今日も、恐れず礼拝を献げたい。

おわりに

 イエス様は私たちの渇きを否定しません。その渇きをわたしに向けるようにと、渇きを満たす方向を正してくださいます。私たちは、このサマリアの女性と同じように、満たされない思い、飢え渇きをもって日々を生きています。また自分自身が、貧しい霊性、貧しい信仰、貧しい知識しか持っていないことを感じながら生きています。イエス様は、そんな私たちを否定しません。「そんなんじゃダメだ」と怒ったりしません。むしろそんな私たちだからこそ、招いてくださるのです。

 イエス様は、私たちと同じように、渇きを覚える一人の人間、一人の旅人として出会ってくださいました。サマリヤの女性に対し、イエスの方から「わたしに水を飲ませてください」と声をかけた。井戸に腰をかけ、同じ目線で、同じように渇いた、一人の人間として出会ってくださったのです。

 すべてを満たし、すべてを知らせてくださるイエス様と共に、またイエスに信頼しながら、今週一週間も信仰の旅路を歩んでいきましょう。