ヨハネ4:27-38「目を上げて」



はじめに

 2週続けてイエスとサマリアの女性との対話を見てきました。自分の力で、一人で生きてきた女性に、神であるイエス・キリストが出会ってくださって、受け入れてくださった。

 サマリアの女性の渇いた心は、神であるイエス・キリストとの出会いによって喜びに満たされました。喜びに満ちた女性は、どうなったでしょうか。

27-30:サマリアの女性の変化

27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。

28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。

29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 

 今、一人の人が、神であるイエスと出会っている。話しをしている。これはある意味で、もうそこに御霊と真理による礼拝が行われていたと言えるのではないでしょうか。

 御霊による礼拝は、特定の場所に束縛されません。聖霊様が私たちと神様とのつながりを、つくっていてくださるからです。また真理による礼拝とは、イエスがキリストであると知る正しい知識に基づく礼拝です。サマリアの女性は、イエスがキリストであることを知りました。

 サマリアの女は、このイエスとの対話を通して、自らの心の渇きが満たされる経験をしました。それは彼女自身の行動を見るとよくわかります。彼女は、人々を恐れて、正午の暑い時間にわざわざ水を汲みに来ていました。その女性が、イエスとの出会いを通して、自ら人々のいるところに向かおうとしているのです。

 まわりが自分をどう思うかではない。私はキリストに出会った!その喜びでいっぱいになっている。人から避けるようにして生きてきた一人の女性が、イエスによって変えられ、むしろ、人々にイエスを知ったことの喜びを伝える者に変えられたのです。

 

31-34:イエスの食べ物

31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。

32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食べ物があります。」

33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」

34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。

 

 イエスは、「わたしには、あなたがたの知らない食べ物があります」と言って、食事を拒みます。イエスはご自身の口でその意味を説明します。34節。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」。

 父なる神の御心に従い、そのわざを成し遂げることが、わたしの食べ物、わたしの養いである。神の御心に従うという働きそれ自体が、わたしを生かしているのだ、と言うんですね。

 イエスはきっとここで、つい先ほど起こった、サマリアの女性との出来事を思い巡らしていたのではないかなと思います。人々に蔑まれ、神を知らなかった女性が、たった今、神を知った。そして人から身を避けるようにして生きてきた彼女が、喜びに満たされて、町に向かっていった。イエス様はそのことを喜ばれていたのだろうと思います。

 あの女性の喜びは、わたしの喜びなんだ。あの女性は、真実に神様のことを知って、喜んでいるけれども、わたしもまた、一人の人が神に立ち返ったことが喜びなんだ。父なる神に従い、父なる神のみわざを成し遂げる喜びを、イエスは食事をするかのように、味わい、噛み締めているのです。今日ここにいる私たちもまた、神を知るためにこの場所に集まっています。神に出会うために集まってきています。この様子をイエス・キリストは、このサマリアの女性の時と同じように喜んでくださっているのではないでしょうか。

 

 

35-38:蒔く者と刈る者が共に喜ぶ

35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。

38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 

 イエスは、一人の人が神様を受け入れる喜びを、色付く畑を見るような喜びに例えています。「『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか」。福音の働きには、福音の種が蒔かれたら、すぐに刈り入れができる、そういう希望があるのだ、とイエスは言います。

 女性からイエスのことを聞いた他のサマリア人たちも、イエスのところに来ようとしている。蒔いた種から、いくつもの実りができて、畑を色付かせるように、このサマリアに神を受け入れる人たちが多く起こされた。色付く畑のようだ。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」。刈り入れの時は近いと言われるイエス様の約束に信頼して、また畑を色づかせてくださる宣教の主である、神様ご自身の力に信頼して、刈り入れの希望を見ながら、伝道していきたいのです。

 同時に、私たちは、種を蒔いてすぐに実りを見ることができないという伝道の現実もまた自分自身の体験や経験からよく知っています。イエス様はそのこともよくご存知です。37節「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです」。刈り入れの喜び、恵みに与る者もいれば、ついにはその刈り入れ、実りを見ることなく、種を蒔くことに徹した人もいるでしょう。

 イエス様はこれを、積極的に受け止めます。イエス様は、言います。蒔いたその人が刈り入れを見ることができなくても、そこで蒔かれた種が、いつか別のところで実を結び、誰かが刈り入れる。伝道というのは、種蒔く者がいて刈り入れる者がいて、みんなで行う共同の働きであって、種蒔く者も、刈り入れる者も、その収穫の喜びの中に共に加えられているのだと言うのです。

 一人の人の救いの出来事は、イエス様ご自身の喜びであり、またその喜びの中に、種を蒔いた者も、刈り入れた者も、皆、加えてくださるのです。一人の人の救いの出来事は、神の家族みんなの喜びです。

おわりに

 種を蒔く時には、忍耐がいります。長い祈り、長い働きかけを必要とするかもしれません。時には、その実りを自分の目では見ることができないということがあります。忍耐を要する伝道の働きに私たちは、ついつい下を向いてしまう。

 しかしイエス様は言われます。「目をあげて畑を見なさい」。刈り入れの時は近い。わたしには色付く畑が見えている。そのように宣言し、実りを生んでくださるイエス様の約束に信頼したいのです。

 イエス様は、この伝道の働きは、わたしの食べ物だと言われました。この救いの働き、救いの喜びは、そもそもイエス様のものなのです。イエス様が、十字架で、ご自身のいのちをささげて、罪ある私たちと神との和解を成し遂げてくださった。人の救いのために、誰より忍耐されたのはイエス・キリストです。救いはイエス様が開いてくださったものであって、この救いの喜びの味わいは、本来イエス様だけが受けるべき報酬であり、イエス様だけに味わう権利があります。

 しかし、このイエスの食べ物の中に、私たちを加えてくださる。イエスの食事の中に、種を蒔いた者も、刈り入れた者も共に加わって、この収穫を共に味わい、共に喜ぼうと、イエス様は私たちを招いているのです。一人の人の救いの喜びをイエスと共に、また神の家族のみんなと共に、喜ぶ教会でありたいと願います。