ヨハネ5:1-9「良くなりたいか」



はじめに

 私たちは、ヨハネの福音書の4章を通して、一人の女性と出会ってくださったイエスの姿をしばらく見てきました。

 本日の箇所でも、イエスは、ある一人の人と出会おうとしています。この人もまた多くの人から見捨てられる人生、目を向けてもらえない人生を過ごしてきました。しかしイエスは、この人と出会ってくださる。

 私たちは今日も、イエスご自身のお姿と言葉に、心を留めていきたいと願います。

1-3:ベテスダの池

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。

3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。

 

 今日の聖書箇所の場面は、神殿の入り口の近くにある、「池」です。この池は「ベテスダ」と呼ばれていました。日本語にするならば、「いつくしみの家」です。なぜこの池は「いつくしみの家」なのか。4節をご覧ください。3節と5節のあいだに入っていた4節は、聖書のもともとの本文が書かれてから少し後の時代になって付け加えられたものであるということが分かっています。そのため本文からは省略されているのですが、そこには、この池がどういう池として人々に認識されていたのかが書かれています。

 4節「主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でも癒された」。このベテスダの池というのは、時々水が動くのです。主の使いによって池の水が動かされてから一番初めにこの池に入るならば癒される。自分の病が癒される。それでこの池は「いつくしみの家」と呼ばれているわけです。そのため3節にあるように、この池のまわりには、病人たちが横になっており、水が動くのを、今か今かと待ち構えていたのです。

 ヨハネの福音書は、その横たわる者たちの中の、ある一人の男性に焦点をあてます。

5-7:良くなりたいか

5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。

6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

 

 池が動くのを待ちながら横たわる人々の中に、38年も病気にかかっている人がいました。彼にとって、この38年とはどのような時間だったのでしょうか。神殿の近くの池です。彼は人々が神殿に集う様子を見ながら過ごしてきました。特にこういった祭りの時期は、多くの人が、神殿に来て、神様の御前に出ようと集まってきています。その様子を見ながら、彼は思ったでしょう。自分も神殿の中に入りたい。神様の御前に出たい。この38年。彼は、何度池の水に入ろうと挑戦し、また何度諦めたかわかりません。

 もしかすると彼はもはや、池に入ろうとすることすら諦めていたかもしれません。どうせ池に向かっても誰かが入ってしまう。重たい体をなんとか動かして池に向かって、失敗してまた戻っていくくらいならば、誰かの助けを待っているほうがいいかもしれない。

 7節で彼は言います。「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません」。誰かが助けてくれることを待っていた。

しかしそれでも、神殿に来る人たちは、誰も助けてはくれませんでした。

 神殿の中の様子と、神殿の外のこの池の様子は対照的です。一方では、神殿の中で、神様との出会いを楽しみに、心踊らせながら、集まり、華やかでにぎやかなお祭りの時を過ごす人たち。もう一方では、神殿に入ることもできず、この池に入ることもできず、ここから立ち上がることすらできない。一生ここで過ごすしかないと、ずっと同じ場所で、なかば諦めの気持ちで、ただ池をじっと見つめ、苦しみに耐える人たち。

 イエスは、どちらに来てくださったでしょうか。イエスは、神殿の中にいる人たちではなく、神殿の外で痛みを抱える、この男を選んで来てくださったのです。6節。「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか』」。多くの人々が集まっている中で、イエスだけが、痛みを抱え、苦しみを覚えるこの男に、心を留め、声をかけてくださったのです。イエス様の「良くなりたいか」という一言は、彼にとってどれほどの慰めになったでしょうか。

8-9:起きよ

8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

 

 「起きて」という言葉は、ヨハネの福音書の中で重要な意味を持つ言葉です。というのは、ここで使われている「起きる」という言葉は、ヨハネの福音書の2114節の「イエスは死人の中からよみがえって」と言われる時の、「よみがえって」と同じ言葉だからです。イエスを死人の中からよみがえらせる、この復活の力。その復活を示す言葉と同じ言葉をもって、イエスはこの男に「起きなさい/起きよ」と呼びかけているのです。

 この御言葉の宣言を聞くと、彼は「すぐに」癒され、歩き出しました。「床を取り上げて歩き出した」とあります。「床を担いで歩き出した」と訳される場合もあります。今までは床の上で、言ってみれば、床に担がれていた男が、今度は自分が床を担いで歩き出す。

 この言葉は、この男の生き方がイエスの御言葉によって、これまでの生き方から、まったく新しくされたことを表現しています。イエスによって呼びかけられ、御言葉によって新しい人生が与えられる。御言葉によって、その新しい人生の一歩を歩き出すことができたのです。

おわりに

 この出来事の全体をふりかえって、心に留めたいことは、イエス様は、この男の信仰を問うことをしていないことです。救いを恵みとして与えてくださったということです。この男は、癒しを求める声をあげていたわけではない、イエスに助けてくださいとすがったわけではない。この男が御言葉の宣言によって立ち上がるという出来事は、まったく恵みとして起きたのです。

 6節を改めて見ますと、イエスがこの男を「見て」、また「知ってくださり」、イエスが「良くなりたいか」と声をかけてくださった。そして8節にあるように、イエスが「起きよ」と命じてくださったのです。救いとは恵みの出来事なのです。

 今日、礼拝を献げている私たち一人一人もまた、罪の病に座り込んでいたところから、イエスの呼びかけによって、御言葉によって、立ち上がった一人一人です。神から離れ、罪に縛られ生きてきた、この私を、イエスは恵みによってその救いの御手に加えてくださり、「わたしと共に生きよ」と、神と共に生きる新しい命を与えてくださいました。

 罪の悩みに座り込んでしまいそうになる時も、また人生の苦難に落ち込み、立ち上がることができないと思う時も、イエス様は

御言葉を通して私たちに、「起きよ」と呼びかけてくださっています。イエスが死からよみがえった、復活と同じ力、同じ言葉をもって、今日も「起きよ」と宣言されています。このイエスの御言葉により頼んで、今週も神様の恵みの御手の中を、歩き出していきたいと願います。