ヨハネ5:9-18「見なさい」



はじめに

 9節の後半は、「ところが」という言葉で始まります。人々から見捨てられていた、一人の男が、イエスの言葉による癒しを経験した。「ところが」。「ところが、その日は安息日であった」。男が癒されたというところで話は終わらずに、「その日は安息日であった」ということをめぐって、この男に関する話は続いていきます

9-13:イエスを見失う人々

9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、その癒された人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。

11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」

12 彼らは訪ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」

13 しかし、癒された人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

 

 イエスの言葉の力によって生かされ、喜びの内に歩み出したこの男の足取りは、神殿にいたユダヤ人によって、すぐにさえぎられてしまいました。「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」。

 ユダヤ人たちは、癒しの御業が行われたことを、癒された彼と共に喜ぶことができませんでした。いや一緒に喜べないどころか、むしろ叱責し、彼の喜びの妨げにさえなっているのです。神のために律法に従っているはずなのに、この男に現された神の御業に気づくことができません。

 また癒された男も、同じように、自分が癒されたということだけに関心を向けて、自分を癒してくださった方のことはすっかり忘れてしまっています。12彼ら(ユダヤ人)は尋ねた。『「取り上げて歩け」とあなたに言った人はだれなのか』」13節「しかし、癒された人は、それがだれであるかを知らなかった」。

 イエスの御業が行われた喜びを、安息日の規則に固執するあまり、さえぎってしまうユダヤ人と、癒されたことで満足してイエスのことを知ろうとしない、この癒された男には、一つの共通点があります。それは、どちらもイエスを見失ってしまっているということです。

 ここに登場している誰もが、自分たちのことで精一杯になっていて、群衆の中を立ち去るイエスの姿を見失っているのです。イエスの御業が行われたのに、この御業を行ったイエスのことを知ろうとしていない。

14:見なさい

14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

 

 しかしイエスは宮の中で、彼を見つけてくださいました。彼を「見つけて」くださったのです。神殿には多くの人が集まっています。その中で、イエスはこの男を見つけてくださった。

 ユダヤ人は、自分たちで決めた規則に固執し、この男は、自分が癒されたということしか見えていなかった。誰もイエスを、見ていません。だからこそ、イエス様は言われます。「見なさい」。あなたの癒しは、誰によってもたらされたのか、どのような言葉でなされたのか、しっかりと見つめなさい。この「見なさい」という言葉は、もう一度、イエスの御業の中を生きるように、イエスとの関係性の中で生きるようにと呼びかける、招きの言葉です。

 イエスは続けて、「もう罪を犯してはなりません」と忠告します。この「罪」とは、何を指しているでしょうか。イエス様は、イエスに出会い、イエスの言葉によって癒され、イエスとの関係が生じたのにもかかわらず、イエスを見失い、イエスを知らない者であるかのように生きている男の、この現状に対して、もう罪を犯すなと言っているのではないでしょうか。

 病は癒されたけれども、しかしイエスを見失い、闇の中を生きている。だからイエスは、多くの群衆の中から、彼を再び見つけて言われるのです。一度光を見たのだから、一度光に出会ったのだから、また闇に向かわないで、この光を見つめて、この光の中を生きよ。わたしを見つめ、わたしの御手の中で生きよと、招いているのです。

 

15-18:今も働いておられる神様

15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

 

 ユダヤ人は、この男に床を取り上げさせたのが、イエスであることを知りました。そしてイエスを迫害し始めます。

 ここでイエスは、「父なる神が今も働いておられるから、わたしも働くのだ」と言います。どういうことでしょうか。本来、安息日というのは、先ほど言ったように、神が休まれ、私たちもその神と共に、働きの手を止め、神の御業を味わい、神を見つめ、

神と共にあることの幸いをみなで共に喜び、讃美する日です。この日には、奴隷も家畜も、神と共に過ごすために休むことができました。みんなが休み、みんなが神と共に過ごすということが大切なのです。

 しかしイエスの時代の神殿やユダヤ人はどうでしょうか。病のゆえに、神殿に入ることができず、神殿の入り口で横たわる病人たちに、誰も心を留めない。ユダヤ人たちが、みなで神の御前に出るための律法の実践をしていないために、本来の安息日を取り戻すために、神の御業を共に喜ぶ安息日を取り戻すために神は再び働き始めておられるのです。

 イエスは、神殿に入ることのできない男を癒し、またイエスを見失ってイエスから離れてしまいそうになる時には、再び見つけ、わたしの御手の中で生きよと招いてくださる。床に伏せていた男が、神の御前に出ることができるように、最大限の働きかけをしているのです。ユダヤ人たちは、イエスが安息日を破ったと言いますが、イエスこそが、本来の安息を実現しようと、父なる神と共に働いておられるのです。イエスの生涯は、私たちみなが神の御前に出ることができるようになるために献げられているのです。

おわりに

 私たちが神の御前に出ることのできない、つまり安息できない一番の原因は私たちの罪です。イエスは、自らの命をかけて、私たちの罪を取り除いてくださいました。それは、私たちみなが、神の御前に共に集うためです。神様のもとで過ごす、安息を実現するためです。私たちが安息するために、イエスは働いておられる。命を献げるほどに尽くしてくださるのです。

 このイエス・キリストの恵みを知った者として、光なるキリストを知った者として、もうイエスを知らない者であるかのように

生きるのではなく、「見なさい」と言われるイエスの招きに答えて、共に神様を礼拝し続けていきたいのです。

 そのように願っていても、イエスを見失ってしまう時がある、キリストの恵みを忘れてしまう時があります。しかしそのような私たちをも、何度でも見つけてくださり、「見なさい」と今日も新たに招いてくださるイエスがいます。このイエス・キリストの御手の中で、今週一週間を歩み出していきましょう。