ヨハネ5:19-30「今、与えられる命」



はじめに

 5章の17節でイエスは、このように言われます。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」。ユダヤ人たちは、このイエスの発言を通して、イエスに対して強い怒りの感情を持ちました。わたしは神と等しい存在だと主張していることになるからです。

 しかしイエスにとって、この父なる神との一体的な関係というのは、イエスの働きの本質的な部分です。ですからイエスは発言を撤回するどころか、むしろ、父なる神とわたしとはどのような関係にあるのかを教えます。

19-20:父がなさることを子も行う

19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

 

 注目したいのは、20節の、「父が子を愛し」という言葉です。「愛し」は、現在形の言葉で、神から遣わされて、人となって地上で働きをしている今もなお、その愛の関係が継続的に続いている、今もその愛の関係の中にあるということを示しています。

 このことをふまえるならば、19節の「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何も行うことはできません」という言葉の意味が、明確になります。この何もできないというのは、イエス様にそれをする能力がないということではなく、むしろ父なる神との継続的な愛の関係にあるために、いつもその愛する父なる神様との関わりの中で、ご自身の働きをなさっているということです。

 このことが具体的に現れるのが、イエス様の祈りの姿です。福音書の中では、イエス様がたびたび、一人静まって、祈りの時をもたれるという姿が描かれます。

 イエス様のお働きの背後には、この父なる神との絶えざる祈りの関係、愛の関係があるということを覚えたいのです。イエス様でさえ、このようになさっているのですから、私たちの場合には、なおさらこのことをよく意識する必要があります。信仰生活が長くなってくると、時に自分の経験から、自分の考えから、祈らなくてもやっていける、独り立ちして、クリスチャンとして生きていける、自分で考え、自分で行動することができると思い込む時があります。しかし、このイエス様のお姿から、父なる神との継続的な愛の関係、祈りの関係をもつべきことを教えられます。

 

21-23:子にゆだねられたわざ

21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うことになるためです。子を敬わない者は、子に遣わされた父も敬いません。

 

 父なる神様が、イエス様に示された大きな業とは、いのちをあたえる業と、さばきの業です。死人をよみがえらせる、いのちのわざ、そして神の正義を人々にもたらすさばきのわざは、神様だけができる業だというのが、当時のユダヤ人の一般的な認識でした。その業が、イエス様にゆだねられていると言うのです。

 神が子なるキリストに、いのちを与える権威とさばく権威をゆだねられたのは、すべての人が、子なるキリストを敬うことになるため、という目的があると23節に書かれています。しかしユダヤ人たちは、イエスを「敬う」のではなく、その正反対に、「迫害」するという態度を示していました。

 私たちもまた、問われるところです。父なる神様に対して、恐れと敬いをもって御前に出て礼拝しているのと同じ思いをもってイエス・キリストを礼拝しているかどうか、ということは、一度それぞれにふりかえって

考えてみると良いかもしれません。イエス様のあわれみ深さと親しさのあまり、イエス様を軽んじては

いないだろうか。この御言葉をきっかけによく吟味したいと思います。

24-26:いのちをもたらす

24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

 

 イエスはどのようにいのちをもたらすか。それは、ご自身の言葉によってです。ここでイエスが言われる、命そして死とは何をあらわしているでしょうか。

 24節には「死からいのちに移っています」という言葉があります。イエスを信じれば、肉体的に死ぬ時、命に移るだろうというような将来の話ではなく、今すでにそれが起こるというような言葉使いです。

 25節でも、死人が神の声を聞く時は、今であると、言われています。つまりここでイエスが言われる、死や命というのは、私たちが考える、この肉体の死、未来に起こる死のことではないということです。

 結論を言えば、ここでイエスが言う、死とは、私たちが神様から離れている状態であり、イエスが言う命とは、私たちが神と共に生きている状態なのです。26節に、「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」とあるように、ここでの命というのは、神とキリストだけが持っているものです。ですから、私たち人間は、神から離れ、イエスから離れ、

自分は自力で生きていけると考えるならば、それは体は動いていても、霊的には死んだ状態であるということです。

 イエス様は、絶えず父なる神との愛の関係、祈りの関係を持っているということをはじめに確認しました。それがまさに命ある者の姿なのです。私たちもまた、イエスの言葉を聞き、祈りの内に生き始めるならば、私たちはすでに永遠の命を生き始めているのです。

 

27-30:さばきを行う

27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。

28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

 

 イエスにゆだねられた業の2つ目は、さばきの業です。父なる神様が、さばきの権威を子なるキリストに与えたのは、キリストが人の子だからだと27節に書かれています。イエスは人となられたお方だから、人をさばくことができるということです。

 イエスは人間として生まれ、そのご生涯を過ごし、死を経験されました。私たち人間が体験する、あらゆる苦難、悩み、痛みを、人として同じように経験してくださいました。そのあわれみの御手の中で、さばきを行ってくださる。

 さばきの権威はイエスにゆだねられているため、どのようなさばきが行われるのか、私たちは完全には知ることができません。ただ少なくともイエス様は、機械的にさばきを行われるお方ではなく、人の子として生きた生涯をふまえて、また父なる神との愛の関係の中で、みこころを求め、神の正義にふさわしいさばきを行ってくださるということです。

おわりに

 いのちとさばきはイエスにゆだねられているということをふまえた上で、改めて25節の「今がその時です」という言葉に心を留めたいと思います。この「今」とは、イエスにとってどういう「今」であるか。

 イエスが置かれているこの「今」という状況は、自らに敵意を剥き出しにしているユダヤ人たちに迫られているという状況です。「今」まさにご自身を迫害しようとし、殺そうと思うほどの怒りをあらわにしている人々に対して、イエスは、わたしがいのちをもたらすのだと語ってくださっているのです。

 イエスに対し、反感を向け、敵意を向けている人々に対しても、今、イエスのいのちの言葉が語られています。この主の御声を聞くならば、私たちはもう死を恐れなくてよい、神と共に生きる平安の中に加えられるのです。

 私たちが今日も御言葉を聞くことができているということ自体が、私たちが、この神様の御手の中にあること、永遠のいのちに生き始めていることを証ししています。私たちが神の言葉を受け入れている、神と共に生き始めている。この幸いを改めて、驚きをもって受け止め、感謝しつつ、今週一週間も、私たちにいのちを与える神様の御手の中を歩み始めましょう。