申命記8:2-7「ふりかえると見えるもの」



はじめに

 申命記のテーマの一つは、約束の地に入る前に、イスラエルの民は一度立ち止まり、荒野の旅をふりかえって、神の恵みを思い起こしたのです。

 今、という時に、希望が持てず、また将来も不安で満ちている時に、私たちは、どうしたら良いでしょうか。それは、イスラエルの民がしたように、一度立ち止まり、うしろをふりかえることです。うしろをふりかえるならば、私たちが、信仰をもって神と共に歩んできた、恵みの道筋があるのです。

1. すべての道を整える

 一つ目のポイントは「すべての道を覚える」ということです。

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない」。

 荒野の旅路には喜びがあった。苦しみもあった。その喜びだけを覚える、苦しみだけを覚えるのではなくて、「すべての道を覚えなさい」と言われます。

 苦しみだけを思い起こすならば、神様は結局、私を一度も助けてくれなかった。何もしてくれなかったと、神に対する不満だけが残ります。喜びだけを思い起こすならば、自分の人生には何も問題がなかった、自分は自分だけでうまくやれると高慢になります。

 ですから苦しかったことも、喜んだことも、悩んだことも、嬉しかったことも含めて、すべての道を覚える必要があるのです。

 それは2つ目のポイントにつながります。私たちはただ、すべての道を覚えるというだけではなくて、そこには、どのような神のご計画と目的があったのだろうか、という視点をもってふりかえる必要があります。

2. 神の計画を考える

 3節の後半部分には次のようにあります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての

ことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった」。

 私たちは、「御言葉によって生きる」をテーマとして、この1年の歩みを進めています。神は、私たちに、喜びの道、苦しみの道を通らせることで、御言葉によって生きることを教えようとしています。

 イスラエルの民は、荒野の旅路で、空腹のあまり命を脅かされるほどの飢えを経験しました。その中で、神の恵みによって与えられたマナを食べて生かされる経験をしました。「結局マナを食べて生きているではないか」と言いたくなりますが、出エジプト記を見てみると、イスラエルの民にマナが与えられるという経験に先立って、神のことばが与えられていることがわかります。

 出エジプト記1612節。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る』」。つまりマナというのは、神の御言葉の約束に基づいて与えられているのです。イスラエルの民は、この御言葉の約束に信頼したからこそ、荒野での旅を続け、御言葉に信頼したからこそ、マナによって満たされる経験をしたのです。彼らは荒野でマナを食べて生きるという経験を通して、御言葉の約束に信頼して生きることをも学んだのです。

 イスラエルの民は、荒野での飢えの苦しみのただ中で、必ず、神の御言葉にしたがって私たちにはマナが備えられる、御言葉の約束に信頼する経験をしました。彼らが荒野で飢えの苦しみを経験することには、確かな意味があったということです。

 経験してきた苦しみが、神様のご計画の中で、どのような意味があったのかという視点をもって、ふりかえるということが、2つ目のポイントです。

3. 神の子どもが成長するための訓練

 続いて、5節をお読みします。5節。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない」。

 3つ目のポイントは、私たちが、信仰の旅路のあらゆる経験を通して、神様からどのような訓練を受けたのか、という視点でふりかえるということです。

 「訓練」というと厳しく聞こえますが、5節に「人がその子を訓練するように」とあるように、神様は、私たちを、子どもを育てるようにして、扱ってくださっているということです。私たちがキリスト者として苦しむことは、ある意味で、私たちが確かに、神様の御手の中で取り扱われているということのしるしでもあるということです。ですから私たちは、キリスト者としての歩みにおいて苦しみを経験する時には、そのところで父なる神様はどのように訓練をしてくださっているだろうかと考える視点を持ちたいのです。

 しかし問題は、私たちは、苦しみを経験しているそのただ中にあって、神様がどのような訓練をなさっているか、また将来どのような恵みを準備してくださっているか、多くの場合、その時には、わからないということです。

 だからこそ私たちは、ふりかえって過去を見つめたいのです。これまで辿ってきた歩みの中に、神様の恵みを見出したいのです。今、苦しんでいるこの瞬間を神様の訓練と考えるのは難しい。また将来それがどのような実りを生むか、今はわからない。だからこそ、一度ふりかえって、私たちが経験してきたすべての道が、どのような訓練となっていたのか、私たちが神の子どもとして成長するために、どのような益があったのか、という視点をもって、これまでの歩みをふりかえりたいのです。

おわりに

 私たちは信仰の歩みを進めていく中で、今にも倒れそうな現実に直面することがあります。しかし4節にはこのようにあります。「この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった」。

 苦しい荒野の旅路のそのただ中にあって、なおもそこに主の守りがあるのです。神様は、私たちを苦しめることを目的としているのではなく、その苦しみを、私たちが神様の御言葉を知る訓練として与えているために、私たちは倒れ尽くしてしまうことはない。神様は私たちを大変なところを通すことがあっても、それでもなお私たちがそのところにあって、もう立ち上がることができないということがないように、守ってもいてくださるのです。

 私たちは、私たちを良い地に導くと言われる主の御言葉の約束に信頼して、荒野のようにも思える人生の旅路の一歩一歩を、踏み進めていきたいと思います。

 もう先に進めないと思ったら、一度ふりかえり、神様の恵みを改めて確認し、今通されている道が、必ず将来約束されている良い地につながるものであることを信頼し、御言葉によって将来の希望を得たいと願います。