ヨハネ 5:31-40「聖書が示すもの」



はじめに

 本日の箇所の直前の内容を大まかにおさらいします。イエスは、自らと父なる神様が等しい関係であることを主張しました。するとユダヤ人はさらなる怒りを燃やし、イエスを迫害しようとします。イエスは、そのユダヤ人に対して「今、わたしの言葉を聞いて命に移されなさい」と、自らに敵意を向けてくる者をも、救いに招いてくださる。

 今日の箇所でも、イエスのメッセージは続きます。彼らに救いの道を示すためにです。私たちも聖書を通して、イエスが語る言葉を、今日も聞いていきたいと願います。

31-32:イエスを証言するもの

31 もしわたし自身についての証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。

32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。

 

 イエスは、当時のユダヤ人の文化にならって、ご自身のことを証言されました。それは裁判の場において、その人自身が言うことは、真実な証言として認めないということ。また証言の正しさを保証するためには、当事者以外の2人か3人の証人による証言が必要であるというものです。

 イエスは、自分自身を弁護するために、守るためにそのようになさったのではありません。自分を守るためではなく、目の前の人を救うために、相手の慣習にならって、つまり相手にとって一番伝わる方法でご自身を示そうとされているということです。

33-35 洗礼者ヨハネ

33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。

34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。

35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。

 

 イエスを証しする存在として、イエスはまず洗礼者ヨハネに触れます。ここでも、ユダヤ人に自分のことがよく伝わるようにと、彼らも知っている洗礼者ヨハネの名前を最初にあげたのだと思われます。「人からの証しを受けない」とあるように、イエスは自らの存在をヨハネに弁護される必要はありませんが、しかしそれでもユダヤ人が、救いに至るために、あえてヨハネの証言を用いるのです。

 ユダヤ人の中には、ヨハネを敵視するものだけでなく、ヨハネを歓迎した人たちもいました。旧約聖書から新約聖書の間の時間、約400年、ユダヤ人たちには預言者が与えられませんでした。そのような背景にあって、神から遣わされた、洗礼者ヨハネというのは、待ち望んでいた、久しぶりの預言者でした。

 しかし神様がヨハネを遣わした目的は、単に預言者を与えて喜ばすことではありません。ヨハネを用いて人々に知らせたいことがあったのです。35節で「ヨハネは燃えて輝くともしび」であると言われています。「ともしび」というのは、案内の役割を果たすものです。ユダヤ人たちは、ヨハネを喜ぶのではなくて、ヨハネが指し示すイエス・キリストを喜び、受け入れる必要がありました。

 しかし彼らは、まことの光なるキリストではなく、すぎゆく光、「ともしび」としてのヨハネで満足してしまいました。

36:父なる神がゆだねたわざ

36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。

 

 ヨハネ以上にすぐれた証しは、父なる神様ご自身の証しです。その一つが、父なる神様がイエスに与えた「わざ」です。神様に与えられた「わざ」というと、私たちは、自然法則や人間の理解を超えた「奇跡」をイメージしますが、イエスのなさる「奇跡」というのは、イエスが父なる神様と同じ権威を持っているということを証しするためのものです。

 先ほどの洗礼者ヨハネと同じように、ヨハネそれ自体、奇跡それ自体が大切なのではなくて、それが何を指し示しているかということに心を留める必要があります。イエスには、父なる神様と同じ権威がゆだねられているのだということを知ることにこそ奇跡の意味があるということです。

 また、ここで「父が与えてくださったわざ」という時の「わざ」とは、ギリシャ語を見てみると、複数形になっています。つまり、あらゆるわざ、様々なわざということであって、父から与えられた「わざ」とは、「奇跡」だけではありません。イエスが、弱さを覚える人、病を抱える人に対して、どのように声をかけ、どのように接し、どのようによりそっているかということであったり、イエスが何を語っているか、その言葉やメッセージも、「わざ」に含まれています。

 5章のはじめには、神殿の入り口で病のゆえに立ち上がることのできなかった男とイエスとの出会いが描かれています。イエスは、彼の病を癒し、彼を立ち上がらせました。この奇跡的な癒しも、もちろんイエスの「わざ」ですが、私たちが心を留めるべき「わざ」はそれだけではないということです。神殿の祭りに集まってくるすべての人が、この病の男を見捨てていた。その彼に、イエスが心を留めてくださったこと、声をかけてくださったこと、また癒しの奇跡を経験したあと、イエスから離れてしまったこの男を再び見つけて、声をかけ、「見なさい」と招いてくださったこと。このすべてが、イエスの「わざ」です。

37-40:父なる神の証言(旧約聖書)

37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。

38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。

39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しをしているものです。

40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 

 イエスはユダヤ人に対し、あなたがたは一度も神の御声を聞いたことも、御姿を見たこともない、と言われます。彼らは聖書(旧約聖書)を一所懸命調べていました。しかし、その聖書が指し示しているキリストを受け入れないならば、それは聞いているようで聞けていないのだと言います。

 37節には、「わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました」とあります。ここで父なる神様がイエスについて「証しをした」という言葉は、過去形の言葉です。旧約聖書を通して、ずっとイエス・キリストの到来を指し示していたにもかかわらず、ユダヤ人たちはイエスを受け入れることができませんでした。

 すでに取り上げた、洗礼者ヨハネやイエスの奇跡と同じように、聖書もまた、それが何を指し示しているかに心を留める必要があります。私たちは、これらのものに指し示されたイエス・キリストを受け入れることによって初めて、父なる神の証しの言葉を受け入れたと言えるのです。

 神の言葉を受け入れるというのは、イエス・キリストを受け入れることであり、逆に言えば、イエス・キリストを受け入れた時、私たちはようやく神の言葉を受け入れたと言えるのです。聖書の言葉を信じている、ありがたい言葉として受け止めていますと言っていても、聖書が指し示しているイエスを受け入れないならば、それは御言葉を受け入れていることにはなりません。

 ヨハネの福音書11節。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。ヨハネの福音書は、最初から明確に、イエスを言葉なる存在として示しています。

おわりに

 神の言葉であるわたしを受け入れよというメッセージをイエスは誰に語っているか。それは、父なる神様の御声を聞けず、またその姿を見たことがない人たちに対してです。イエスは、神の御声を聞いて来なかった一人一人を諦めず、救いの道を開いてくださっているのです。

 この場面ではユダヤ人がそうです。自らを殺そうと思うほどの敵意を向けてくるユダヤ人に対して、いのちを語ってくださった。

 私たちもまた、父なる神の御声を聞いたことがありません。父なる神様の姿を見たことがありません。しかし、この私たちも、イエスを通して、神の御声を聞くことができるようになった。神の御姿を見ることができるようになった。私たちにも、救いが開かれた。時間を超え、国を超え、言葉の壁を超え、何より神と人との断絶を超えて、イエスは今、私たちと出会ってくださっている。

 この驚きと、慰めを、今改めて心に刻みたいと願います。ヨハネが示し、聖書が示し、父なる神が示しておられるイエス・キリストの声に耳を傾け、またその御姿を見つめ、今週もイエス・キリストと共に生きる者でありたいと願います。