ヨハネ 5:41-47「神の前で生きる」



はじめに

 ユダヤ人たちは、イエス・キリストを受け入れることができません。同じ39節の前半部分を読みますと、「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べています」とあります。

 聖書を調べているのに、聖書が証ししているイエス・キリストを受け入れることができない。それはなぜか。今日の聖書箇所では、聖書を調べていてもイエス・キリストを見出せない理由が示されています。

41-44:神からの栄誉

41 わたしは人からの栄誉は受けません。

42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。

43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。

44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。 

 

 聖書を調べているのに、なぜ聖書が証ししているイエス・キリストを受け入れることができないのか。イエス様はいつも父なる神様からの栄誉を求めていた。つまり神様のまなざしの前に立って、自らがどうであるかということを考える視点です。しかしユダヤ人たちは、人々の間で自分がどうであるかという考えで聖書を読んでいました。

 ユダヤ人は、自分たちのグループの中で、お互いに賞賛し合い、そしてその人々の中で、誰が優れているかと競い合う習慣があったようです。パウロもかつてはそのような者の一人であったと自らふりかえっています。ガラテヤ114節「私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした」。

 彼らにとって聖書とは、人々との間の競い合い、栄誉の受け合いの中で、人々に評価され、人々から栄誉を受け、高い地位に立ち、優れた存在として認められるための手段にすぎなかったのです。

 信じること、信仰というのは、簡単に言えば受け皿です。神様からの救いをお乗せし、頂く受け皿です。その器に、人々からの栄誉を乗せてしまうならば、その器にはもう神様の救いを乗せる場所がありません。私たちは聖書を利用する者ではなくて、聖書の前に自らを問う者でありたいのです。

 私の器には、何が乗っかっているだろうか。神様の救いを受け取るために、自分自身の器をからっぽにできているだろうか。

45 あなたがたを訴えるもの

45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えるとは思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。

 

 律法は、自らの正しさを主張するためのものではなく、神の正義に照らして自らのあり方を問うためのものです。人々と比べて、自分の方が正しいとか、あの人の方が従えていると、競うためのものではなくて、いつも神様の前に自分自身を見つめ直すことをうながすものです。

 それをここでは、「モーセがあなたがたを訴えている」と言います。律法が訴えている。他人がどうかを気にするのではなくて、また他人と比べて自分がどうかを気にするのではなくて、律法の前における自分がどうかということを問わなければならない。

 もしユダヤ人たちが、旧約聖書を調べるだけではなくて、律法を前にして、自らを問い直していたならば、自分の正しさを誇るという考えには至らず、むしろ自分自身にある罪の問題に気づかされていたはずです。そして自らの罪に気付いていたならば、赦しの神であり、救いの神であるイエス・キリストと出会うその時、イエス・キリストを求める心になっていたのではないでしょうか。

 

46-47:書かれたものを信じる

46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。

47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。

 

 聖書は私たちをキリストへと導く案内役であり、私たちがイエス・キリストを受け入れることを目的としています。そこで気をつけなければいけないことは、聖書が示すキリストが大事なのだから、聖書は大事ではない、キリストを受け入れられればいいのであって、聖書はそれほど重んじる必要はないと考えてしまうことです。

 イエスは、モーセが書いたものを信じなさいと言われます。聖書はあくまでも案内役ですが、案内役というのはとても大切で、軽んじてよいものではありません。案内に書かれている内容、そこに示されている内容を、信用して、信じるからこそ、目的地に着くことができるのです。聖書もそれと同じです。聖書に対するその基本的な信頼があってはじめて、私たちはその聖書が示すキリストという目的地に到着することができるのです。

 案内を信じて、重んじるだけではなくて、その使い方を間違えないようにしなければなりません。案内は、人々を、その目的地に向かわせることでその役割を果たします。標識を見る時には、その標識がどんな形で、どんな文字を使っていて、どんな素材を使っているか、そういう点においてどれだけ詳しくなったとしても、目的地に辿り着くことはありません。使い方が誤っているからです。

 それと同じように、聖書にどれだけ詳しいか、どれだけ従えているか、そう仕方でのみ扱ってしまうのならば、私たちはキリストのみもとにいくことができません。案内を本当に重んじるのであれば、それにふさわしい用い方をする必要があります。聖書が何を指し示しているか、私たちをどこに導こうとしているか。

おわりに

 さらに言えば、私たちが聖書を正しく用いてキリストのみもとに向かうだけでなく、神様ご自身が聖書を用いて、私たちをキリストのもとへと導こうとされているのです。人の前に立つ自分ではなく、神の前に立つ自分を見つめることがなければ、私たちは自らの罪に気づくことができず、またその罪を解決してくださるキリストのみもとに行くことができません。

 それはわかっていても、やはり人からの栄誉を求めてしまう。人の間で栄誉を受けようと考える者が、どうして神を信じることができるか。この問いを改めて自らに向ける時、たしかにどうして私のような者が神を信じることができているのだろうかと思います。改めて「どうして」と問われると迷うところがあります。

 しかし神への信仰というものは、自分で沸き立たせるものではなく、また人々との競い合いによってつくりあげるものでもありません。

 このこともまた、自分自身の目線で、あるいは人々からの目線で考えるのではなく、神様のまなざしの前で考えるならば、その信仰をも神様が私に備えてくださったものであるということに目が開かれます。私たち信仰者の歩みとは、いつもこの神のまなざしの前に自分を置く歩みであり、この神の前に生きる歩みです

 人々からの栄誉を求めて自らの信仰を競うようにして進むのでもなく、自分の信仰には問題がなく、自分の確信だけで真っ直ぐにいけると自分の信仰を誇るように生きるのでもありません。

 いつも神のまなざしの前で生きる。には、自分の課題が見えたり、限界が見えたり、問題が見えてくることがあります。しかしそこに目が開かれるからこそ、同時にそこに赦しのキリストの姿が見えてくる。問題だらけの自分を今も受け入れてくださっている父なる神様の姿が見えてくる。

 人々の間で受け入れられることを求めて、足りない信仰を、あたかも信仰深くあるかのように見せかけて、自分を誇るようにして生きるのではなくて、この足りない者をもキリストのゆえに、そのままで受け入れてくださる神様の御腕の中で生かされることを求めたいのです。