ヨハネ 6:1-15「私たちを養うイエス」



はじめに

 五つのパンと二匹のさかなの奇跡。多くの人に知られ、なじみあるイエスの奇跡の一つです。なぜこの奇跡は、よく知られているのか。それはイエスがご生涯でなさった多くの奇跡の中で、この奇跡だけが4つの福音書すべてに描かれているからです。

 本日は、4つの福音書すべてに描かれた奇跡を、ヨハネの福音書がどのように証ししているかに注目しながら、共に御言葉に聞いていきたいと願います。

1. 主の恵みを数える者

 他の福音書と比べて、ヨハネの福音書に特徴的なこととして、まず挙げられることは、この奇跡をイエスご自身が中心的になさっておられることです。11節「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた」。

 ここで群衆にパンと魚を分け与えたのは、イエスであると強調されています。他の福音書では、イエスがパンと魚の恵みについて神様を讃美したあと、それを一度弟子たちに渡しています。群衆に配る働きは弟子たちに任せているのです(群衆は、男だけで5000人いますから、もちろん実際には、弟子たちに配ってもらったのだと思います)。けれども、ヨハネの福音書は、群衆を養ったのが、「イエスである」というところを強調しています。

 他にも5節のはじめの部分には、このようにあります。「イエスは目を上げて」。他の福音書では、弟子たちが群衆を見て、イエスにどうしたらよいかと尋ねているように描かれています。

 また続く6節の後半部分にはこうあります。「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた」。イエスは、これから自らの御業によって群衆を養おうという強い意志をもっておられるのです。

 他の福音書は、イエスと共に、奉仕をする存在としての弟子の姿を強調しているのに対し、ヨハネは、この奇跡をイエスご自身がなさったという点を強調しています。

 では弟子たちはどのように描かれているでしょうか。群衆たちと同じく、イエスの御業を体験する者として描かれているのです。言い方を変えれば、弟子たちは主の恵みを数える者たちとして描かれています。残ったパン切れを集めると、12のかごがいっぱいになったとあります。12人の弟子たちと同じ数のかごです。200デナリあっても足りない、5つのパンと2匹のさかなでは到底足りないと言っていた弟子たち一人一人に、イエスはかごを持たせてくださった。弟子たちは、神様の恵みの重みを、ずっしりと自分自身の体で味わったのです。

 イエスは弟子たちを、まず恵みを数える者としてくださった。恵みを受け取る者としてくださいました。ここで弟子たちが、まずイエスの恵みを十分に受け取り、味わったように、私たちもまずこのあふれるほどのイエスの恵みを数え、体験する者でありたいのです。

 からっぽのかごの中から、一生懸命自分の努力や、がんばりで仕える思いを沸き立たせるのではなくて、からっぽのかごがいっぱいになるほどに与えられる神様の恵みをしっかりと受け取っていきたい。

2. 一つも無駄にならないように

 ヨハネの福音書でもう一つ心に留めたいことは、ヨハネの福音書は、この奇跡を「聖餐式」のイメージを用いながら描いているということです。

 11節前半「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた」。「感謝の祈りをささげた」とあります。他の福音書では、「神をほめたたえ」となっているところです。それをヨハネの福音書は、「感謝の祈りをささげ」と言い換えています。

 ここで感謝という言葉は、ギリシャ語で「ユーカリステオー」という言葉が用いられています。これは、初代教会の時代、つまりこのヨハネの福音書を書いたヨハネの時代、聖餐式をあらわす言葉として用いられていました。そしてこの奇跡のあと、続いていく6章の後半で、イエス様は、「わたしがいのちのパンです」(6:35)と宣言されます。つまりこの6章全体を見ると、群衆の養いのために裂かれるパンと、人々を生かすために裂かれるイエスご自身の体が重ねられているのです。

 聖餐式のパンは、私たちの救いのために十字架で裂かれたイエスの体をあらわしています。イエスの裂かれたからだにより受け入れられ、また養われるという救いの恵みは「すべての人に」開かれているということが12節でわかります。

 12節にはこうあります。「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。『一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい』」。一つも無駄にならないように集めなさい。この言葉が記されているのも、ヨハネの福音書だけです。「一つも無駄にならないように」。

 ヨハネの福音書では、これと同じギリシャ語が、ヨハネの316節で使われています。ヨハネ316節「御子を信じる者が一人として滅びることなく」。この「一人として滅びることなく」が、今回の箇所で言うところの「一つも無駄にならないように」です。イエス様は、いのちのパンであるご自身の体を通して、一人として滅びることがないように、すべての人をその救いの御手に加えようとしてくださっている。私たち一人一人が滅びることのないように、この小さなひとかけら、この小さな私にも目を注いで、その救いの御手の中で養い、生かしてくださっているのです。

 私たちが、まず自分のかごに満たすべき恵みは、イエス・キリストの裂かれたからだによって神に受け入れられたこと、またそのキリストに養われているという救いの恵みです。

3. 私たちに仕える王

 このあわれみと愛に満ちたイエスの奇跡の真意を、群衆たちは理解できませんでした。15節。「イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた」。

 イエスは、メシヤとして、つまり油注がれた王として地上に来られたはずなのに、なぜ王にされることを嫌がるのか。ここで群衆がイエスを王にしようとしたという時の「王」の性質と、イエスが王であるという時の性質はまったく違うものなのです。

 私たちが王と言われて通常イメージするのは、ここで群衆がしたように、人々にかつぎ上げられ、人々の上に立って、自分のために人々に仕えさせる王です。しかし私たちが今日、見てきたように、イエスは私たちに仕えさせるお方ではなく、むしろ誰より仕えるお方、誰よりへりくだって私たちを養い、私たちを生かすお方です。イエス様は、私たちを生かすために、自らは十字架の死にまで従われるお方なのです。

 私という存在を、下から、その根底から支え、生かしてくださるお方なのです。私たちは、イエスに仕えようとする前に、まずこの驚くべきイエスの御業をまずしっかりと受け入れる者でありたいと願います。

おわりに

 私たちが仕える前に、私たちに仕えてくださった王なるイエス様を見つめたい。イエスの役に立てないと思う時にも、パンのひとかけらも無駄にしないイエスのあわれみに心を留めたい。私たちを下から、その根底から生かし、養ってくださるお方を見つめたいのです。